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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■罪を赦し、神の子とするキリストの福音の始まり
主イエスが洗礼を受けられたこと、それは救い主が神に背いたこの罪の世に来られ、そこにつながって下さったということを象徴しています。イエスの洗礼の出来事は、十字架という「洗礼」を既に物語っています。イエス・キリストの十字架によって、罪の歴史を生き、死の闇に座して生きてきた民は、神に赦され、いまや、キリストと共に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との天からの声を聴くものとされたということ、その福音が既に始まっていることを福音書は巧みに語るのです。

■サタンの誘惑、ヨハネの捕縛
イエスは荒れ野でサタン、すなわち神から引き離そうとする力によって試みられ、しかしこれを克服しました。それはイエスにおいて始まった福音、つまり、この世の人々の罪を赦し、神の子としての祝福に招き入れる福音の恵みは、どのような力をもってしても無力化、無意味化させることはできず、福音は全てに打ち克つのだということです。そして、洗礼者ヨハネの捕縛が報告されます。これは、福音の訪れを世に告げる彼の役割が終わり、いまこそ、福音をもたらす宣教が開始したことを物語る出来事です。

■福音を信じなさい
遂に主イエスの口が開かれます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。神の国、それは、人が神の子として見出され、生かされているところです。主イエスは、あなたが、神の子として罪赦され、愛され、生かされているということ、この福音を信じなさいと言われるのです。「信じなさい」とは、「あなたもそれを信じることができるのだ」「あなたに信じて欲しいのだ」という招きです。それはただ神が、あなたを神の子としてに祝福に生かそうと求めておられるということです。そして、主イエスは、人がこの「福音」に生きることができるために、十字架へと歩み始めるのです。主イエスが宣教を開始したということ、それは主イエスがこの世の罪を担い十字架に死なれる、その歩みが始まったということなのです。

■福音によって生きた最初の人々
主イエスが、ガリラヤ湖で二組の兄弟、シモンとアンデレ、そしてヤコブとヨハネに出会う場面。主イエスはここで彼らに「わたしの“弟子”になりなさい」とは言われません。彼らも「我々を弟子にして下さい」「我々の師になってください」と求めたわけでもありません。この場面は、「主イエスが弟子を採用したことを語っているのではなく、彼ら4人は、イエス・キリストの福音を信じ、この福音によって生きた最初の人々として登場しているのではないでしょうか。

■人は何によって生きるのか
彼らは即座に仕事(網)を捨て、家族(父親)も財産(船)を捨てて主イエスに従いました。これは「出家」の勧めでしょうか?それには飛躍があると思います。ここで語られているのは、彼らがキリストのもたらした福音によって生きる者となったということです。仕事も家族も財産も大切なのは当然です。しかし、人は何によって本当に生きてくると言えるのか。キリストの福音によってこそです。仕事も大事、家族も財産も、それらが本当に生きてくるのは、キリストの福音があればこそです。すなわち、このわたしが、神に赦され抱きしめられ、神の子として見出され、とこしえに愛されているという事実。この福音の光の中でこそ、仕事も家族も財産も本当の意味を帯び、新たに受け取り直されるのです。

■私たちは漁師だったのだ
「彼らは漁師だった」(16節)。彼らはこの時、イエスのことなど何も知らず、日々ガリラヤ湖で網を打ち、地道に自分の人生を生きていた人々であったのです。その彼らが、なんの脈絡もなく、いきなり出会ったのです。この「脈絡のなさ」「思いがけなさ」というところがポイントです。すなわち、キリストの福音は、誰にとっても思いがけない恵みであるということです。わたしが必要としたことではなく、わたしが選び、求めたことでもない、自分がそれに相応しいとか、当たり前のもの、自明のものとは言えないものです。誰にとっても、この福音は思いがけない恵み、一方的な恵みです。彼ら4人の台詞は一つもありません。ただ一方的に呼び掛けられ、この福音によって捕らえられ生かされたのです。

■アメイジング グレイス
彼らが福音を求めたのではなく、キリストの福音が彼らを求め、捕らえたのです。わたしたちにとって福音はどこまでも思いがけないものです。このわたしの神に背き神を忘れて生きる罪を思えば思うほど、この世の神に背く破滅的な罪を思えば思うほど、この罪のためにご自身の命を捨て、このわたしを御心に適う、愛する神の子として下さる恵みによって飲み込まれているというのは、驚愕すべきあり得ないことです。しかし、まさにその福音という恵みの網によって、そのあなたが捕まえられているのです。その恵みは決してあなたを離さない、逃さない。「福音を信じなさい」「わたしについて来なさい」、この呼び掛けの中に今日のわたしたちは生きているのです。
「わたしたちはガリラヤの漁師だったのだよ」。4人はキリストの福音に飲み込まれた経験、その記憶を生涯忘れることがなかったでしょう。しばしば仲間に主イエスとの出会いのエピソードを語ったことでしょう。その記憶がこうして福音書の中に残されているように、キリストの福音に捕らえられた私たちの記憶を証ししていきましょう。その証しもまた、一つの「福音書」として誰かにキリストとの思いがけない出会いをもたらしていくのです。

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