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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■「何を議論していたのか」
「誰が一番偉いか」と議論していた弟子たち。それは彼らを少しフォローして言えば、誰が主イエスに最後まで従う覚悟を持っている弟子であるか、誰が最も熱心で忠実であるかという意味での真面目な議論だったのかもしれません。しかし、その議論は、まさにこれから十字架の死に向かおうとしている主イエスの歩みから遠くかけ離れた口先の空論に過ぎませんでした。この時、弟子たちが主イエスに自分たちの会話が聞こえないように距離を置いて歩いていた光景は、そのことを良く表しているのだと思います。そして、この光景は、時として私たち自身にも当てはまるものではないでしょうか。「あなたたちは、何を議論しているのか」とのイエスの問いかけが私たちにも響いています。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
自分ファースト、自国ファースト、他者を押しのけ、蹴落とし、成功者、勝ち組になりたいと願い、そこにこそ幸いと人生の価値を見出すような生き方に対し、主イエスが言われる「一番先」とは、すべての人の後になり、すべての人に仕えるという生き方でした。
主イエスが十字架を担われた歩みは、それこそ、十字架で自らを捨てて、すべての人の後になり、すべての人の命に仕えるものでありました。そして、その先に神は「復活」という出来事を示されました。これはすべての人の後に、すべての人の下になる道にこそ命があるということです。「あなたたちは一体、何を議論しているのか」。主イエスは、自分中心の価値観にどっぷりと浸かるわたしたちに問い掛け、そこから解放して、ご自分の歩みへと、命に至る道へと招かれます。

■キリスト者であるということ
〜キリストの名によって生きる〜
ここに突如として、一人の子どもが登場し、主イエスによって抱きあげられました。読者の私たちは、この場にこどもの存在を意識していなかったでしょう。全く意識されていなかった者、あるいは疎外されていた者こそが、ここで中心に置かれ、抱き上げられました。そして主イエスは言われました。「わたしの名のために、このような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた神を受け入れるのである」。
「イエス・キリスト」という名は、わたしたちにとって、御自らを献げて私のすべてを担い、限りない赦しをもって、わたしを神の子として生かして下さった方の名であります。つまり、私が私であることの根拠としての名です。そしてまた、私たちが自分の人生を生きていく時の基準・動機としての名であります。お祈りをする時だけ引き合いにされる名ではなく、生活のあらゆる時と場において、わたしたちは「イエス・キリスト」という名を帯びています。この名によって、自分が今日も赦され、愛され、神の子として生かされてある自分であるということを繰り返し確かめさせられるのです。また、キリストの名によって、わたしたちは、愛され、赦されながらもなお頑なで、自己保身に生き、愛のない、自らの罪の実態を照らされます。しかしこのわたしを照らす光は、わたしを白日の下で裁き焼き尽くす光ではなく、なおも、このわたしを知り、赦し、生かして下さる恵みの光なのです。
実にそのようにして、わたしたちは日々、キリストの名によって生きている。それが、「キリスト者」であるということ、「キリストと共に生きる」ということなのです。

■隣人を自分のように愛せよ
「わたしの名のために、このような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた神を受け入れるのである」。
「キリストの名によってこの子どもを見よ」というのです。それは、「あなた自身が、キリストによって見出され、命がけで愛され、神の子とされているように、この子どももまた、キリストが我が事のように愛し仕えている存在であることを見よ」ということです。主イエスはこの子どもの存在を我が事とされました。ここに「隣人を自分のように愛する」という命の教えが体現されています。主がこのわたしを我が事として愛してくださったように、隣人にもその事実を見出して関わっていく。それが私たちに示された命の道、平和の道です。
日々武力による殺戮、威嚇と緊張が報じられる中、「平和はどこにあるのか」と心騒ぎます。平和とは遠くかけ離れたようなこの現実の中で、多くの人々が、「一番先に」「一番上に」と視線を向け、立ち止まれなくなっているようなこの現実の中で、しかし、主は「ここに平和がある!」と一人のこどもを抱きあげておられます。私たちは、そこに愛された私たち自身を見つめながら、同じく主に愛されている隣人のもとへと、わたしが通り過ぎたその隣人のもとへと立ち返っていきましょう。主イエス・キリストの名によって。

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