札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■「終わり」は始まっている
マタイ25章31節で、王であるキリストが栄光に輝いてこられ、すべての国の民がその前に集められ、羊と山羊のようにより分けられる(裁かれる)。とてつもなくスケールの大きな終末のイメージが提示されています。しかし、そこで王が問題としたことは、なんとスケールの小さなことでしょう。「はっきりいっておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたことである」(40節)。歴史の総決算の時、すべての者が集められ問われたことは、この世的偉業ではなく、むしろ一晩の宿、一食の食事、一枚の服、一杯の水。
ここで考えさせられることは、「終末」とは、わたしたちにとって遥か遠い未来の話・別次元の世界の話なのではなく、いま目の前にいる一人に対してわたしがどう考え行動するかという現在の問題にほかならないということです。キリスト者は一年を通して終末を見つめます(待ち望む)。神の御業がアルファからオメガへと至るその終わり・完成の日を見つめます。しかし、それは「終末はいつ来るのか、主イエスはどこから来るのか」といってソワソワしながら、漠然と遠くを眺めることではなく、目の前の具体的な一人に主イエスご自身を見る、主イエスが訪れる終末は、実はもうここで始まっているのだと知り、自分自身のあり方を問い、行動するということなのです。
■愛あるところに神あり
絵本や紙芝居で親しまれている『靴屋のマルチン』のモチーフとなった聖書箇所です。『靴屋のマルチン』の原作は『愛あるところに神あり』(トルストイ著 1885)というタイトルです。「愛のあるところに神はおられる」。わたしたちはどこで神に、主イエスに出会うのか、改めて考えさせられます。人を傷つけ軽んじる言葉であふれ、利己的で卑屈で愛の冷めた心であふれ、自分や他者の存在の意味や価値がだんだん失われていく社会の中で、神の不在を思い、満たされない思いになってしまうことの多いわたしたち。もう一度、こども心に返って味わいたいと思う物語です。
終末において王がすべての者に問うたのは、いと小さきものへの愛。「まさかそんなことが?」と思うようなささやかな業なのです。裏を返せば、わたしたちの身の回りには、それだけ愛の必要であふれているということでしょう。わたしたちが気づこうとすれば、きっとごく身近にあるはずのことです。わたしたちはそこで「知らぬ、存ぜぬ」で黙ってやり過ごすこともできるでしょう。傍観者として批評、論評して過ごすこともできるでしょう。「自分にできることはない」と真っ先に決めつけて放棄してしまうこともできるでしょう。ささやかなことなのに、それを難しく考えて足取りを重たくしてしまいます。そうして自己保存へと逃げ込んでしまうことによって、その人は、キリストの訪れ、キリストとの出会いを逃しているのではないでしょうか。聖書が語る“悪魔”や“サタン”とは、まさにそのようなやり口で、わたしたちの心に巧みに潜み、キリストからわたしたちを引き離そうと躍起なのかもしれません。
■新たな一年を前に、「教会」を考える
「教会の衰退」ということが全国的に叫ばれている昨今ですが、果たして教会の衰退とは、人数や財政力の減少や、高齢化、少子化ということなのでしょうか?もちろん、それらは蔑ろにされてはならない課題ですけれども、同時に教会が道を踏み外してしまう恐れがあるのも、まさにその点においてです。主は何を問題とされているか、わたしたちは世にあって何を証しとして立てていくべき群れなのか、今日の箇所は実にシンプルに物語っています。わたしたちはどんなに「イエスを知っている」と豪語しても、それだけでは空しいでしょう。単なる知識のレベルではなく、真の意味で、「主イエスを知っている」ということがどういうことなのかが示されています。
最も小さい者のために何もしなかったことによって、46節で言われるように永遠の罰を受けなければならないとするならば、恐らくほとんど全ての人間がその裁きを免れないことになるでしょう。わたしたちはその終わりの日を戦々恐々と待つのでしょうか。そうではありません。この物語に触れて、自分の愛の足りなさを恥じ、悔やむ必要はありません。なぜなら、その恥を、また、終わりの日に問われ裁かれるべき負い目を、この話をされた主イエスご自身がこの後、十字架で背負われたということ、それによって軽やかさがわたしたちに与えられていることを知っているからです。その軽やかさをもって、あなたは今日、どう生きるのか、その道を示されています。主イエスの訪れ、主イエスとの出会い、その備えの日々がここから始まります。
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