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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■神の偉大さとは
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。
そして主イエスは、一人のこどもを抱きあげて弟子たちに言われました。「わたしの名のために、このような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた神を受け入れるのである」。
神は全知全能で、永遠なる方で、この世を支配する方だから偉大なのではなくて、その偉大さに固執せず、御自らを捨てて人となり、世にあって取るに足りないと見なされていた一人を抱きあげ、この一人に仕えられたことのゆえに偉大なのです。私たちは、ここで主イエスにより抱き上げられた一人のこどもに、自分自身を見出すことができるでしょう。神がその栄光を捨てて、わたしのもとに来て下さり、わたしをその罪諸共担い抱き上げて下さった。その心を尽くし、力を尽くし、わたしを御自身の愛する子としてくださった。そのような自分自身をこのこどもに見出すことができるのです。だからこそ、わたしたちは、自分と同様である他者を認め、仕えることを求められてもいます。

■キリストの痛みを痛感するならば
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかに良い」。人を軽んじ、自分の方が偉いなどと思うような驕り高ぶりを徹底的に打ち砕くような言葉です。それだけ、小さなものを軽んじることは、主イエスとって重大な問題であるのです。「片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方が良い」。しかし、過ちを犯した自分の片手を切り捨てたからといって、それは根本的な解決ではありません。イエス・キリストは、この世の罪を背負って十字架でその命を捨てたのです。人間が過ちを犯した片手に代わって、ご自身の片手を犠牲とされたのではなく、全身を捧げ、死をもって罪の贖いとなられたのです。私たちは部分的に救われたのでなく、この存在丸ごとを救われたのです。このキリストの痛み、その犠牲というものを痛感するならば、あなたは、どうして人を軽んじ、躓かせることができるものか。キリストによって贖われた者として、あなたはその手を、その足を、その目をいかに用いていくべきなのか、そのことこそが問われているのです。

■「自分自身の内に塩を持ちなさい。
そして互いに平和に過ごしなさい」
「塩」とは何を意味しているのでしょうか。糖分の代わりに甘味を感じさせる物質(キシリトールなど)はありますが、塩分の代わりに塩気を感じさせる代替物はないのだそうです。「塩に塩気がなくなれば何によって味をつけられるのか」と言われる通り。また塩分は、いのちを維持するために不可欠です。あるいは、旧約聖書において塩は防腐と保存の効果を持っていることから、「永遠不変」を象徴します(参照「塩の契約」民数記18:19)。「自分自身の内に塩を持ちなさい」とは、「自分自身の内に決して代わりの利かない、生きるために不可欠の、永遠不変のもの、すなわち、神の愛を持ちなさい」ということです。主イエスは、穏やかにではなく、迫るような強い言葉でそう言われたのではないかと思います。決して代わりの利かない、あなたがあなたであるために不可欠の、不変の神の愛。これを自らの内にしっかりと持ち続けよ!と。なぜなら、人間は、この愛をまるで味気ない無意味なものにしてしまうからです。もし、神の愛がわたしにとっては味気を失った何の意味もないものであるならば、どうして他者を神に愛された者として尊び、互いに平和に過ごすことができるでしょうか。自分が神にどんなに愛されているかを知るからこそ、自分の内に神の愛という塩を持つからこそ、他者を自分と同じく愛されているものとして知ることができるのです。
「自分自身の内に塩を持ちなさい」。「永遠不変の、他に代わりのない不可欠の神の愛を持ち、そうして互いに平和に生きよ!」と主は言われるのです。神がキリストの死をもってあなたを愛すると決断して下さったことを痛感せよ、決して忘れてはならない。そのために主は、熱情の火、聖霊の火をもって、今日、私たちの内にその愛を味付けされます。

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