札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■共に歩む者を求めた主イエス
主イエスの歩みは、誰とも関係を持たない、誰も近づくことのできない、お一人だけの歩みではありませんでした。主イエスは、ご自分と共に歩む者を求められた、それがこの箇所に明らかです。神は自己完結の神ではありません。「インマヌエル」(神は我々と共におられる)という言葉は、私たちのただ中で、私たちを“巻き込み”、私たちを用いながら、その御業を進めようとされる神のご意志を表わしている言葉であると言えるのではないでしょうか。
この箇所は、すべてを捨ててイエスに従ったペトロの一大決心の物語のようで、しかし、ペトロと共に生き、彼を用いていこうとされた神の決意が先行している神の物語であります。
■失敗と徒労の中へもう一度漕ぎ出せ
舟を少しばかり岸に漕いで欲しいとの主イエスの依頼に応えたペトロですが、その後、主イエスから「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と、最初の話とは全く違う想定外なことを求められました。それに、それは無謀なことでした。ペトロは、既に一晩中苦労して上手くいかなかったのです。その沖にもう一度漕ぎ出し漁をするなど、徒労に徒労を重ねるだけ。漁師の常識ではありえないことでしょう。けれども、主イエスは、あなたはその失敗と徒労の中へ、もう一度漕ぎ出してみよと言われるのです。
■己の常識を捨てて
この言葉に押し出されるようにして、ペトロは「しかし、お言葉ですから」と自分の常識を捨てて主イエスの言葉に従いました。最後11節で「すべてを捨ててイエスに従った」と書かれていますが、実は既にこの湖の上で、ペトロは、自分の常識を捨て、イエスの言葉に押し出される新たな歩みを始めています。信仰の歩みは、私たち自身の確信・決心に基づくものではなく、不安や疑いを持ちながらもイエスの言葉に押し出され、導かれて行く歩みです。
置戸教会が重なります。教会閉鎖が現実味を帯び、深い落胆、徒労感の中にあった群は、自分たちの常識やこれまでの教会や地区や教区という枠組みの常識によらず、「恐れるな」との主の言葉に押し出されて、「沖」に漕ぎ出しました。連帯という名の網を降ろした時に、夥しい魚ならぬ、様々な出会いが見出され、人から人へ様々な反応・出来事が生み出され、まったく思いがけない仕方で、会堂建築と牧師按手という出来事に至り、なおその歩みを続けています。
私たちは、今日の箇所に出てくるもう一艘の舟(7節)です。置戸教会からの合図を受け、パートナーとして沖に漕ぎ出し、共に主の御業を目撃させて頂きました。主の言葉に押し出され生きていくことが、どんな思いがけない物語につながっていくか。これは置戸教会の一大決心がもたらした物語である以上に、彼らを用い、彼らの只中で働かれた主の物語です。
■主の言葉に押し出され、主の言葉に生かされる
私たちは、11年前にこの教会堂の大改修事業に漕ぎ出したことについて、いま共に思いを新たにしたいと思います。人間の常識、計算があり、不安がありながらも漕ぎ出しました。当初は10年で完了する計画でしたが、終わらず2019年12月の臨時教会総会で延長を決断しました。わたしは、この大きな課題を前にして、いつも「決して忘れてはならない」と思いますのは、この物語の主語は神様であるということです。もし、これがただ単に人の常識や願望に基づいた計画で、それが無理となれば、また常識に従って10年延長したというだけならば、それは打ち砕かれるべき傲慢であり、それでは本当に徒労になってしまうでしょう。そうではなく、神様がこの事業を10年では終わらせず、更なる継続の中で、私たちを用い、私たちをみ言葉によって押し出し、生かそうとしておられる、そう信じ受け止めたいと思うのです。この度の塔・外壁補修の必要も、わたしたちがこのコロナの状況の中で、いつの間にかバラバラになってしまうのではなく、主にあって団結するために与えられたものと共に受け止めたい。どうせ徒労に終わるのでは、失敗するのではといった恐れ・疑いの中で、私たちを用いる主の言葉に押し出され、その言葉を信頼して漕ぎ出したい。そして、これは決して工事が終わればそれで良いと自己完結してはならないことです。このことを通して、いま一度、北光教会という群れが誰と共に生き、誰に仕えていくのか、そのことに気付かされ、つながりを作り出していく、そのような取り組みにしたいと思います。
ペトロは、仲間と共に大漁の魚を引き上げた時、「主よ、ありがとうございます。あなたに一生どこまでもついていきます」とは言わず、「わたしから離れて下さい。わたしは罪深いものなのです」と言いました。彼は主の言葉の力に打ち砕かれ、この方が自分の舟に乗り込んでいる事実を、いや、主イエスという命の舟の中に自分が乗って導かれている事実を畏れたのです。ここに私たち自身の姿を見つめたい。
十字架の死からの復活、その福音は、ペトロがガリラヤ湖上で経験したことの中に、既に始まっていました。後片付けの最中であったところに、深い落胆と諦めと失望の中に、明日を思い煩う中に、主イエスの言葉が呼び掛け、彼を新しい命へと呼び覚ましました。私たちの話でもあります。私たちは、日曜の朝、主イエスの復活の朝、ここに集まります。欺くことのない主にある希望をここで確かめ、私たちを用いる主の物語へと共に漕ぎ出ししょう。
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