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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■初子の奉献
マリアとヨセフは、律法に従い、40日間の清めの期間を過ごし、その後、幼子を抱いてエルサレム神殿に詣でました。ユダヤ人は、かつて神が出エジプトの出来事において、エジプトの初子をことごとく撃つ際、イスラエルの初子を、家の鴨居に塗った小羊の血によってご自身のものとして区別し、その災いを過ぎ越されたことを後世まで記憶し続けるため、初めて胎を開いて生まれた男児を神のものとして捧げ、また、これを動物の犠牲を捧げることによって贖う(買い戻す)という儀式を行いました。マリアとヨセフは、この律法に従って、イエスを神に捧げ、動物の犠牲で贖うために神殿にやって来たのでした。

■シメオンのアドヴェント
シメオンは、「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいました(25節)。つまり、神への背きの罪に満ち、その結果として苦難と挫折に満ちたイスラエルの長い歴史に終止符を打つようにして、神の赦しが、慰めが、救いが訪れるのを待ち続けてきたのです。長く暗い闇に光が訪れるその日を、解放と回復と安息が告げられるまことのヨベルの年の始まりを。そのようにして人生の晩年を過ごしていた彼の姿は、救いを久しく待ち望んできたイスラエルの歴史全体を映し出しています。

■シメオンが見た主の救い
シメオンは、マリアとヨセフが息子イエスを連れてエルサレム神殿にやって来たの見、そして、この幼子を自分の腕の中に抱いた時、そこに待ち続けてきた神の救いの到来を見たのでした。すなわち、神がこの幼子を犠牲としてこの世に献げて下さったということ、この幼子の流す血によって、長く罪の奴隷であった民をご自分のものとして贖い取ってくださるのだという救いの御業です。この幼子の流す犠牲の血によってこそ、すべての民が神の御許に買い戻される。まことの出エジプト、まことの過越しが、このイエスという小羊の血によって成し遂げられる、シメオンはそのような神による贖いの業を見たのだということです。ここで、マリアとヨセフが息子を神に奉献しにきたのではなく、神がイエスを世の罪の只中に献げてくださったという恵みを見たのです。シメオンはマリアに言いました。「この子は、…反対を受けるしるしとして定められています。」「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」。この言葉は、イエスがやがて罪人として十字架に架けられるということ、この世の罪を負って贖いの死を遂げられることを暗示しています。
私たちは、これから降誕節を過ごすわけですが、主イエスの降誕がいかなる出来事であったのか、天使が羊飼いに告げた「民全体に与えられる大きな喜び」とは何であるのかが、その意味が今日の箇所に表されています。

パウロは手紙の中にこう記しました。「時が満ちると、神はその御子を女から、しかも律法の下に生まれたものとしてお遣わしになりました。それは律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤ4:4)。
マリアとヨセフが律法を守り、清めの期間を過ごし、初子の奉献を行ったこと、それは実にイエスが、律法の只中にお生まれになったということを良く表わしています。キリストは律法の下にこられ、律法の束縛から解放された。すなわち、律法を守る正しさによって自ら救いを獲得するのではなく、ただご自身が贖いとなることによって、私たちを神のもの(子)として下さったのです。そこにはもはやユダヤ人と異邦人の区別はありません。すべての隔てを越えてキリストは与えられました。「これは万民のために整えて下さった救い」(31節)。この世は御子をお迎えする何も整えもありませんでした。宿屋には余地がなかったように。人間ではなく、神こそが、すべての民のために整えて救いを与えられた、それが飼い葉桶の誕生です。

■主の救いを抱きつつ
シメオンは、幼子を自分の腕の中に抱きかかえながら、自分自身が神様によって愛する我が子として包まれているという慰めを確かめました。私たちも同じ慰めに満たされています。新しい年が始まりました。しかし、それはただカレンダーがリセットされただけで、暗く痛ましい出来事が繰り返されるばかり、いや、もっと深い暗さの中に陥っていくかのような不安も覚えます。しかし、「一体、救いはどこにあるのか」と問う必要はないのです。確かにここに、救いは来て下さったのです。
シメオンは「これで自分は安らかに去ることができる」と思いました。私たちも皆、安らかに世を去ることの出来る平安を与えられています。それでいてなお、主によって明日もまた生かされるのであるならば、その日々をもう一人の登場人物アンナのように、神の救いを証しする一人一人として用いられていきたいと思うのです。

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