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ペトロの告白
「フィリポ・カイサリア」。ローマ皇帝を神として賛美し、忠誠を誓う地。それはユダヤ人からすれば、この世の力と繁栄を追い求め、そのために神ならぬものを神とし、真の神への信仰から離れ去ってしまった世の罪深い現実を見つめさせられる場所です。この地でペトロが告白しました。「あなたは、メシアです」。「あなたこそ、神に背いたこの罪深い時代に、イスラエルをその罪から救い出し、神の子としての祝福を回復して下さるメシア(=キリスト)です」と。ペトロは、主イエスに従ってきた中で、人々が神の子として祝され、その尊厳を回復していく様を目撃してきました。神の福音がこの方において始まっているということを実感したペトロだからこそ、そのように告白できたのでしょう。

ペトロの期待
ご自身の死と復活を予告されたイエスを、ペトロはいさめました。「メシアであるあなたが殺されてどうするのですか!」「『わたしに従いなさい』と言ったのはあなたではないですか。そのあなたに死なれてどうしろというのですか!」。そんな具合ではなかったでしょうか。ペトロには、メシアたるイエスに絶大な期待を寄せていたのです。イスラエルに神の赦しと祝福が成し遂げられる、と。その「時は満ち、神の国は近づいた」(1:15)のです。ペトロにとって、イスラエルにとっての悲願が現実となりつつあるのです。その希望であるイエスが、自らの死を語ってはならなかったのです。いつまでも元気でいてもらわなければ困る、いつまでもこの方と共にいたいのです。しかし、そんな彼の強い期待こそが、十字架の死へと進もうとする主イエスの歩みを妨げていました。

あなたは神のことを思わず、人のことを思っている
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」(33節)。ペトロとしては、イエスをメシアと信じ従ってきたのです。しかし、実のところは、イエスに従ってきたのではなく、むしろ自分の期待、自分の理想にイエスを従わせてきたのではないか、ということをここで問われたのです。自分の理想の実現、その意味での自己実現を求めていたペトロに対し、十字架へと歩む主イエスは、むしろ自分を捨てようとしておられたのです。自分を実現しようとするペトロと自分を捨てようとするイエス、そこには根本的な方向の違いがあります。「あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と言われたのは、まさにその点です。これは、わたしたちにもまた向けられている言葉です。「あなたの人生は、自分の思いが実現されたらそれで良いという人生なのか。否、あなたの人生は、あなたを造り、あなたを用いられる神の御心、御業のためのものなのだ」と。

自分を捨て、自分の十字架を背負う
「わたしについて来なさい」(1:17)とガリラヤ湖でペトロを招いた主イエスが、今一度、呼び掛けます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)
「自分の十字架を背負う」とはどういうことでしょう。主イエスが十字架を背負われ、死なれたのは、イエスという一人の人間の自己実現が目的ではありませんでした。それはこの世の罪を贖い赦すという神の御心の実現です。「自分の十字架を背負う」、それは自分の思いではなく神様の思いが実現されていくところの務めです。神様によってあなたに負託された務めです。そこでは「自分を捨てる」こと、すなわち「自分を与えること・献げること」が求められるのです。
ペトロは、フィリポ・カイサリアの地で「あなたはメシアです」と告白しました。それは正しい告白ですが、主イエスはそれを賞賛するということはありませんでした。それどころか、誰にも話さないようにと戒められたのです(30節)。主イエスがペトロに求めたこと、それは自分の信仰の正しさを語ることではなく、ただ「主イエスに従うこと」でした。キリストを信じることは、キリストに従うことに他ならないということです。「十字架を担われた主イエスを見つめ、この方に従って、あなたも自分に与えられた十字架、そこに神の御心が表されるために託されている十字架を背負って歩みなさい」と言われているのです。

「わたしに従いなさい」
自分の期待や、自己の実現や充実という方向ではないのです。主イエスがどこまでも他者に関わり、自らを献げられたこと、「向こう岸へ渡ろう」といって湖を越えていかれたこと(3月6日説教)、その方向が示されます。先週も申しましたように、わたしたちの教会(生活)は、他者のための教会(生活)である時にこそ教会(生活)となっていくのです。
わたしたちは躊躇するでしょう。激しく恐れ、己の無力を嘆き、悩むでしょう。「自分にはとても背負えない」「背負いたくない」と思わずにおれない「十字架」があるのです。しかし、主イエスは「あなた一人で行け」「頑張れ」と言われるのではなく、確かに「このわたしに従いなさい」と約束し導かれるのです。死の先にある復活を予告された主イエスなのです(31節)。「十字架から始まるあなたの新しい命があるのだ」と招かれるのです。受難節、それはキリストにあるわたしとして十字架を背負っていく時です。

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