札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■神の国の近さを示すイエスのたとえ
主イエスにつき従っていた人々があることを尋ねました。それは主イエスが譬えを用いて人々に話されることについてでした。そこで主イエスは言われます。11節「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえでしめされる。主イエスがたとえによって語ろうとしていること、それは神の国の秘密だというのです。神の国とは何でしょう。それはわたしたち人間が「ここからあそこまで」とその範囲を定めるような領土のことではありません。神の国とは、その人が神様によって愛する子として見出され、生かされているところです。自分がどんなに深く愛され、赦され、大きく祝福されているか、その福音が響いているところです。それは目には見えない事実です。それは「信じる」ということによって初めて、その人々の中で生きてくるものです。つまり「信じる」までは、どうしたってそれは秘められているものなのです。
主イエスは、人々がこの福音を信じ、神の国に生きるものとなるために、たとえを用いて語られます。人々の生活の身近にある光景を用いて神の国を語られたのです。それは、「神の国は、決してあなたから遠く離れたものではなく、あなたの日常の中に見出されるのだ、あなたのごく近くにあるのだ」ということでしょう。福音を信じて生きるということは、決してこの世の現実から目を背けて生きることではなく、日常の中に秘められた神の国の福音に「はっ」と気付かされながら生きていくということです。そのようにして日常を神の愛の光によって新たに受け止め直していくことです。
■聞くには聞くが理解しない、石地や茨の地としてのわたし
主イエスのたとえは、ある人にとってはとても分かりやすく、神の国が目の前に開かれて行くような話だったでしょう。しかし、主イエスは、ある人々には全く逆のことが起こるというのです。12節で「彼らは見るには見るが認めず、聞くには聞くが理解できず、こうして立ち返って赦されることがないようになるためである」と言うのです。
道端や、石だらけの土地や、茨が潜んでいる土地の話が出て参ります。そのような土地では決して実が結ばれないように、ある人々には主イエスの言葉は、「見るには見るが認めず、聞くには聞くが理解できない」ものであり、なんの実りも結ばないのです。そこでは、神の国は開かれるどころか、かえって堅く閉ざされてしまうのです。こういうことを言われると、わたしたちはギクリとします。あるいはシュンとなります。根が付かないため苦しみに直面すればすぐにつまずいて福音を忘れてしまうとか、この世の思い煩いや富の誘惑、様々な欲望ばかりが心を覆い尽くして福音が生きてこないというのは、まさしく自分のことではないかと思わされるのです。
■罪人を招くために来られた方
しかし、自分がそのように道端や、石だらけや、茨だらけの者であり、福音を忘れてしまう脆さ、愚かさを持った者であるということを率直に認めることが重要なのです。なぜなら、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)、と主イエスは言われるからです。主イエス・キリストは、石だらけで茨だらけのようなこの世界にこそ来られた方なのです。何度み言葉を蒔いても実らないような救いがたい世の只中に来られて、しかし、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という祝福を響かせたのです。「神の国はあなたに近づいた」と、福音をもって関わって来られたのです。世の頑なさは、愚かさは、無自覚にもイエスを十字架の死へ至らしめましたが、まさにその十字架の死のゆえに、神は今日、この石だらけの、茨だらけの世を「良い土地」として下さいました。わたしたちが良い土地であるのは、わたしたち自身に由来することではなく、ただご自身を捧げられたキリストのゆえです。
神は、今日、わたしたちを「どうせ種をまいても実らないだろう」「意味がないから、勿体ないからやめようか」とため息と共に語ってはおられません。わたしたちを「良い土地」として喜び祝福しながら福音の種をまいて下さるのです。わたしたちがどういう人間であるかということに関わらず、わたしたちが今日、共にみ言葉を頂いているということそれ自体が、神様のわたしたちへの愛と喜びと祝福そのものなのです。
■聞く耳のある者は聞きなさい
わたしたちは、このようにして神様がイエス・キリストにおいて与えて下さった福音を恥とはしません。たとえ何を持っていないとしても、ただこの福音を持っているならば、それはその人の中で何倍にも豊かな喜びとなります。反対にこの福音がないならば、その人はどんな富を持っていたとしても、実は何も持っていないに等しいと言わねばならないでしょう。ともし火をテーブルの下ではなく、燭台の上に置くように、わたしたちはこの福音を生活の真ん中におきましょう。福音のともし火はわたしたちを照らします。わたしたちの欠け、過ち、愚かさ、罪深さを照らし出すと共に、そのわたしを限りない愛と赦しをもって照らすのです。
「聞く耳のある者は聞きなさい」(23節)。それは「あなたにこそ良くよく聞いて欲しい」との主の忍耐強い招きです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、この声を命の内に響かせましょう。わたしたちからはるか遠くではなく、日常の中にこそ天からの祝福は響き、神の国は開かれています。
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