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1. 協力牧師として担当する主日礼拝で、今日からテサロニケ人への第一の手紙を取り上げます。その初回なので、この手紙について概観しておきましょう。パウロの書いた手紙としてこの手紙は最も古い書簡です。紀元50〜52年頃に書かれました。その紀元50年頃、パウロは、仲間と共に第二次伝道旅行で、現在のギリシャ北東部マケドニア地方に渡りました(新共同訳聖書巻末地図8)。彼らはテサロニケ、その他の都市でかなりの信者を集めてエクレーシアと呼ぶ信徒の集会を作りました。しかし、事情が生じて早々とテサロニケを去り、その後すぐにテサロニケの信徒に第一の手紙を送りました。

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2. このテサロニケを始めマケドニアの都市でパウロの伝道は大いに成功しました。テサロニケだけでなく、その近くの幾つかの都市にもエクレーシアができました。それらの都市はほぼ共通して当時の世界帝国ローマの主要都市でした。その一つであるピリピでの伝道からパウロの活動の特色が分かります。パウロはユダヤ教の会堂を拠点に伝道しました。その結果、ピリピのユダヤ人のうちかなりの人々がユダヤ教を捨ててキリスト教に転向したようです。また「信心深いギリシャ人のうち多数」(使徒17:4 私訳)も改宗しました。つまり非ユダヤ人住民でユダヤ教会堂に出入りしていた人たちの相当数が、キリスト教に転向したのです。キリスト教に転向した人たちとはどういう都市住民だったか。パウロの手紙に残る人名の研究から分かっています。当時、ローマ帝国の都市に流入してきた移住者です。ほぼローマ市民権など持たない多人種・多民族の出身者たちです。そういう人々の前にパウロ的なキリスト教が現れました。つまり、帝国都市で最も不安定な立場の人々の心をパウロ的なキリスト教がしっかり捕らえたのです。

3. ところで、ピリピの場合、ユダヤ教徒側は会員を奪われたことで、パウロ一行に反発して暴動まで起こしました。パウロ一行はピリピから逃げ出しました。彼らが帝国の都市で伝道すれば必ずこのような衝突は予想できました。そこで、パウロは、帝国都市に暮らすユダヤ人を訪ねながらも、伝道の相手を非ユダヤ人の都市住民に絞っていきました。ともかく各地で逃げ出すような体験があったにせよ、パウロのマケドニア伝道はユダヤ教側の弾圧を除けば順調に進んだといえます。パウロを資金援助で支えるキリスト者も、次第にマケドニアの諸教会になっていきました。そこにテサロニケをはじめマケドニア諸教会にあてたパウロの手紙が、暖かい雰囲気で、繰り返し感謝を述べる理由が窺われます。このようなパウロの幸いな伝道とエクレーシア造りを可能にしたものを思い返してみましょう。先ずローマ帝国の世界支配政策です。つまり、都市を結ぶ道路網の整備、帝国軍の駐留による治安確保などでした。

4. 他方、帝国都市の興隆は社会にひずみをもたらしました。都市の不在大地主に莫大な富が集まりました。地方の小地主層は没落し、小作人や奴隷が増えました。格差の拡大で農村から溢れた人々は都市に流れこみ、増大する都市下層民となって国際都市化が進みました。パウロの伝道は、その都市住民のある階層に関心と力を注いでエクレーシアを造りました。その結果、生まれた教会は固有の特色を見せています。コリント教会についてパウロが残した言葉からそれが分かります。コリントの信徒への手紙(1)の次の言葉です。「あなたがたの召され方を考えてみるがよい。兄弟たちよ。世にいう知者は多くなく、権力者や上流生れの者も多くはいません。むしろ神は、世の無学な者を選ばれました。知者を恥じ入らせるために。また神は社会的弱者を選ばれました。強者を恥じ入らせるために。また神は、社会的には低い生まれの者や、見下されている者、すなわち無にひとしいと思われている者たちを選ばれました。有力者を恥じ入らせるために。こうして世の何者も神の前では誇れなくなるのです。」(1:26-29 渡辺英俊訳)

5. パウロの言葉は、コリントの教会の社会的な性格をよく描き出しています。さらに紀元二世紀のケルソスという人のキリスト教に対する非難の記述とも符合しています。現代の研究者がケルソスの言葉を紹介しています。「彼(ケルソス)はこう主張する。教会はわざと教育のある人びとを遠ざけている。なぜならこの宗教は『愚かで恥知らずでばかげた人びとか、奴隷や女や子どもたち』だけを引きつけるものだからである。彼によれば、キリスト教の伝道者たちは『毛織り職工や、靴直し、洗濯人、最も無学な羊飼いの田舎者たち』で、『子どもや…ばかな女たち』をたぶらかして、『服屋や靴屋や洗濯女の店に完全とは何かを学びに』くるようにさせたのだ、という。ケルソスは二世紀の人だが、キリスト教が常に最下層の人々の運動であったと確信していたのである。」

6. このような下層社会層の人びとはローマの都市で、どういう場所に住んだのでしょうか。その地域は、都市の市民が暮らす住宅街ではありません。移住民を迎えたのは、移住民の安い労働力で成り立つ零細企業の工場主たちだったでしょう。その工場の立地も限られていました。パウロは天幕作りの職人でしたから、そのような工場主の家(オイコス)に仕事を見つけて住み込むのは容易だったはずです。そこでは、自分の生活を支える手段も見出せたでしょう。しかしそれ以上にパウロは、自分の宣べ伝える「イエス・キリストの福音」が、まさにこのような人々に向けられたものであるとの自覚を深めたことでしょう。そうであるから、伝道の場所としてそのような地域を選んだとも言えます。パウロが「オイコスのエクレーシア(家の集会)」と呼びかけている信徒の教会は、このような零細家内工業の工場主の家に成立したものです。それは、工場主の家族も、奴隷も職人も、「メシ炊き」や「洗濯人」の下働きも、「教師」もいっしょに暮らすような、生産から消費に至る全てを含めた生活の場を基盤としたものだったでしょう。

7. パウロの伝道の言葉は、彼の生きた社会で、そこに生きた人々を生かすべく語られたのです。それは無時間的な真理や観念的な教理ではないのです。そのために、あえてパウロの都市伝道の社会的な有様に詳しく触れました。パウロの伝道によって実際に何が実現したかを理解したいからです。ここでこそ「ただ言葉によらず」(1:5)という一句を心にとめたいのです。パウロのつくった都市下層民の多民族・多人種教会の中心にあったのは、「主の晩餐」でした。今日、私たちはそれを聖餐式と呼んで儀式化しています。しかし、当時の「主の晩餐」は単なる宗教儀式ではありませんでした。私たちの「うどん食堂」のような実際の食事を含むものであったことは、コリントの信徒への手紙(一)11章17節-34節のパウロ自身の記述から見て確かです。

8.このような下層民の教会を精神的に支えたのは、パウロ自身の言葉によれば、「イエス・キリストの信実」(ロマ3:22 私訳)によって示された「神の正義」(前同)の教えでした。信徒たちは、世界各地から集まり、言葉も文化も宗教も違う人びとでしたが、それらの人々が「主の晩餐」を一緒に囲むことができたのです。そのためには、相互の嫌悪感と不潔感を超えて異なる者を受け入れ合う共通基盤が必要でした。パウロの贖罪論はこの社会的広がりの中で、その意味をとらえ直す必要があります。パウロは、「万人罪人」というイメージ・ローラーで、それぞれが自分を絶対化する根拠−それが宗教であれ、人種であれ、社会的地位であれ−をゼロに還元したというべきでしょう。つまり「万人罪人」の教えは、単に全ての人を罪人と断じるその前に、「全て」の人、誰もが公正に神の前に生きる人間であることを語っているのです。その全ての人がもれなく、「イエス・キリストの信実」という、神の無償の賜物の徴として、主の晩餐で共に食卓を囲むのです。主の晩餐とは人々「全て」が人間として認めあい相互に結び合う招きだったのです。

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9. この主の晩餐にみる分かち合いを「半分こ」と呼びたいのです。主の晩餐の「半分こ」は数や量がちょうど半分づつ、という見た目の「半分こ」ではありません。一人一人の必要に応じた公正な分かち合いのことです。パウロの教会は「全て」の人に開かれた教会だからこそ、公正としての「半分こ」を、それぞれの必要に応えて本気で実行していたのです。それが教会の原型エクレーシアでした。今日の私たちの教会をふり返ってみましょう。教会は「全て」と「半分こ」とを分かたずに追い求める共同体です。「半分こ」の振る舞いを怠り、言葉だけの「全て」を語る教会は真実な意味で教会と呼べないでしょう。「言葉だけでない」パウロの伝道と教会造りを受け継ぎましょう。あらゆる人に開かれ、だからこそ分かち合いを具体的な振る舞いで担い、両者を切り離さない。教会には正統な教えだけでなく、正当な振る舞いが欠かせないのです。それは北光教会がイエス・キリストの教会であるためです。そして私たちは主イエスと共にこの都市札幌で生きる「地の塩」とされていくのです。Ω。

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