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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■真夜中の賛美
パウロは、フィリピで出会った「占いの霊に取りつかれている女奴隷」(16節)から、霊を追い出しました。ところが彼女を奴隷として利用していた主人たちは、占いの霊が追い出され、もはや金儲けの望みを絶たれたことに腹を立て、パウロとシラスを捕らえてローマの役人に引き渡してしまいました。まともな裁判を経ず、異教の神を教え、ローマ帝国内の町に混乱をもたらした罪人として二人は鞭打ちに処され、牢屋に閉じ込められ、足枷をはめられました。鞭打ちの痛みに牢屋という暗闇、一種の極限状態に置かれたパウロでしたが、そこで見られたのは、真夜中の讃美と祈りの姿でした。「万事休す」というべき状況において、神の支配と導きの中にあると信じ、その心は囚われの身でありがなら自由でありました。希望する術のないところでなお希望する、暗闇の中に光を見る、それが聖霊の働きです。私たちは毎週の礼拝において、神を賛美し、祈りますけれども、それも聖霊の働きなしには、決して起こらないことです。賛美する時、祈る時、それ自体において、わたしたちは自分たちが神の愛の支配と導きの中に生かされているということを知りたいと思います。

■聖霊による自由
パウロは、人々の悪意や、世の権力に抑圧され、自由を奪われる中で、しかし、自分をまことに支配しているのは彼らではなく、あるいは、得体の知れない不気味な力でもなく、キリストを死から甦らせ、罪と死の闇に座していた人々を赦しをもって解き放ってくださった神こそが主であることを知っていました。この主にあって既に勝利と自由を得ていたのでした。
パウロは、ローマ帝国の市民権を持っており、様々な特権が保証されていた人物でした。けれども、そのパウロが、その伝道の歩みにおいて主張したのは、「わたしたちの本国は天にある」という信仰です。「私たちは、天において市民権を持っている。主なる神の愛において、私は私として完全に保証されている」。この希望のゆえに、パウロは真夜中の獄中で、しかし主にあって全く自由に解放されたものであるかのように神を賛美したのです。

■讃美し続ける
「私にとっては、これが最後です。しかし、また始まりでもあります」。D.ボンヘッファーが、ナチスドイツによる処刑前に残した言葉です。終わりの中に始まりを見つめる。それがキリストにある私たちの生き方であり、死に方です。神こそが、アルファであり、オメガである(ヨハネの黙示録21:6)、ここにのみ絶対というものを見据えるからこそ、神への賛美はなお歌われ続けるのです。「主を賛美するために人間は創造された」(詩編102:19)と聖書にあります。それは主にあって、わたしたちはいかなる時にも賛美し続けることができるのだという希望のメッセージとしても受け取れるでしょう。死の悲しみの中でも、病に伏す時にも、だからこそ・・・・・わたしたちは主に向かって歌うのです。それが聖霊の働きなのです。

■人の妨げを越えて
さて、パウロとシラスの賛美に、ほかの囚人たちも聞き入っていたところ、26節「突然」、大地震が起こりました。聖霊降臨、パウロの回心の時も「突然」でした。それは人間の想定や妨げを超えた神の決定的な介入を表します。大地震によって牢屋の戸がすべて開かれ、囚人たちを繋いでいた鎖が外されました。これは人々にまことの解放と自由をもたらす聖霊なる神の業は、誰にも何にも妨げることはできないということ、たとえ人は鎖につながれても、福音は決して鎖につながれないのだ(Uテモテ2:9)ということです。
囚人が全員逃げ出したと思い込んだ看守は、死んで責任を取ろうとしましたが、すぐさまパウロが引き止めました。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」。そして、ここで立場の逆転が起こっていることに気付きます。さきほどまで牢に捕らわれ、鎖につながれていたパウロたちの方こそ自由の身で、反対にパウロたちを捕らえ見張っていた看守の方こそが、絶望して窮地に追い込まれた不自由な状態、囚われの状態に陥っているということです。この時、看守は、パウロたちを前にして、自分こそ救われる必要があるのだということを知りました。そして、この後、自分の家族と共に主を信じる者とされ、真夜中の洗礼が授けられるに至るのでした。彼らもまた主によって探されていた一人でした。
私たちは家族や人に伝える必要のない、伝える価値のない福音を信じているのではないはずです。聖霊の働きは、自分だけの救い、自分だけの恵みだけにとどまらない、そのような妨げをも思いがけずして越えていくことを信じます。わたしたちが、どのような時にも、たとえ人生の真夜中においても、主を賛美し続けるその自由な姿が、このような喜びにつながっていく主の御業なのだということを覚えたいと思います。

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