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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■人の思い、神の思い
ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていた洗礼者ヨハネのもとに、イエスがやって来られ、人々と同じように洗礼を受けようとされた。「釈迦に説法」ならぬ「イエスに洗礼」などという事は、ヨハネにとって理解しがたい、間違った行為ことであり、なんとか思いとどまらせようとしました。ところが、これに対しイエスはこの洗礼が、受ける側授ける側双方にとって正しい行為であり、「今は、止めないでほしい」と言われました。つまり、人間の思いでこの洗礼を妨げてはならない、神の思いは全く次元が異なるということです。
イエスがご自身の十字架の死を予告した場面(16章21節以下)で、ペトロは「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスを諫めましたが、イエスはそのペトロに「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責したのでした。それも同様に、人間の思いでしかないということです。
救い主が飼い葉桶という貧しさの中に生まれたという話も、イエスが洗礼を受けたという話も、キリストが十字架で罪人として処刑されたという話も、そして三日目に復活したという話も、どれも人の思いでは、「そんなバカな、あり得ない!」とつまずいてしまう出来事でしょう。故郷ナザレの人々は、「この人は大工の息子ではないか」(13章)といってつまずきましたが、実に洗礼者ヨハネこそ、最初にイエスにつまずいた人であったのです。

■イエスの洗礼
ヨハネは言われた通りイエスに洗礼を授けました。本来、洗礼の必要などないはずの方が人々と同じように受けられた。すなわち、それはイエス・キリストが私たちと同じ人間となられたということ、わたしたち罪人の列に自ら加わって下さったということ、そうしてこの世と深くつながって下さったということに他なりません。イエスの洗礼、それは罪あるわたしたちと同じ人間となるということでした。その意味で、それは罪が「洗い清められる」ことではなく、むしろ「汚れること」であったと言えるでしょう。それこそが、神にとって正しいこと、相応しいことであったというのです。
イエスは、この世に来られ、自分の手を一つも汚すことなく、この世界を救って見せたという方ではありません。「インマヌエル」、この言葉は、麗しい響きのようであって、その実態は真逆です。主イエスは、人間の罪に満ちた世で翻弄され、絶望する者たちと共に痛み、悲しみ、しかしその一切をその私たちを泥んこになりながら支え、担う方として来られたのです。その世の罪と汚れを自分のものとして引き受けてでもこの世を、この私を愛されたのです。そして、やがてその手には釘が打ちつけられた。イエスの洗礼の出来事、それは神から離れて生きるこの世界に、自ら突入して「共におらん!」とする神の決意なのです。

■天の声
洗礼の後、天が開け、霊が鳩のように下り、そこから声が聞こえてきました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。天が開けたという描写。それはすべてのものに天への道が開かれたことを表しています。主イエスが降誕し、洗礼を受け、十字架に死なれ、復活し、そして昇天されたという一連の上下運動のような出来事は、主イエスが天への道そのものであることを表しています。罪と死の闇に閉ざされた者に、神との交わりが開かれ、主イエスと同じく神に愛された子として生きるものとされたということです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この言葉を、私たちも今日ここで、そしてそれぞれの生活の現場でいつも耳にしているのです。

■「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」
パウロは、洗礼について、それはイエス・キリストと一体とされることなのだと言いました。キリストの十字架の死に結ばれ、それゆえ復活のキリストの命に結ばれるのです。そんな話、人間の考えでは「馬鹿げた、あり得ない」話かもしれませんが、目に見えない決定的に重大な信仰の事実です。礼拝堂の十字架は単なる風景・意匠ではないでしょうか。この十字架は、イエス・キリストの死を告げると同時に、洗礼によってこの方と一体とされた皆さん自身の死を告げています。「古いあなたはキリストと共に死んだのだ」と。そして、この十字架はもう一つの事実、キリストは復活され、ここにはおられないということをも示しています。復活のキリストは、この私たち自身と一体なのです。復活のキリストがこの私を生きておられ、この私が復活のキリストを生きている。
この事実を、「そんなバカな。あり得ない」と人間の考えで妨げてしまわず、このことによって歩みを起こしていく、それが信仰生活です。主イエスは、今年もわたしたちの中に働き続けます。この私と共に、この私を用いて、その御業を行われるのです。私たちは洗礼を受けることによって、そのように自分自身を捧げたのです。主と共に生きている、その恵みを日々の中で表していくものでありたいと思います。

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