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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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1. あるキリスト者の言葉がある。この人は半世紀に及ぶ信仰の歩みを振り返って告白している。「イエスと共に歩む体験は、始まりはあるが、終わりのない体験である。なぜなら、それは常に新しい体験を歩むことを意味しているからだ。」(F・アノニマス)この人の告白は、私たち自身の告白とも言えるのではないか。そして、この告白に通じる体験は、はるかに歴史をさかのぼって紀元一世紀のごく初期のキリスト者の体験でもあった。今日のマルコの物語にその体験を語る古い伝承を見出すことができる。

2. 10章46節以下の「バルティマイの癒し」の物語は、紀元一世紀前半にパレスチナのエリコ地方に伝わっていた民間のイエス伝承から、マルコが福音書に収録した物語だと考えられる。この物語は、病に苦しむ民衆の一人バルティマイがイエスに出会って病気からの解放を体験したというストーリーだ。医療の恩恵などほとんど及ばなかった古代ユダヤ民衆の生活で、病を癒すイエスの物語は長く民衆の記憶に残るものだった。

3. しかし、この物語を単に病気を癒す奇跡物語と見るのは、まったく不十分な理解だと言わねばならない。この物語は、病気の癒しと共にバルティマイという一人の民衆が、イエスによって新しい自分自身を発見した物語でもあったと見るべきだ。新しい自分自身の発見と言ったが、それは、神の前に人間としての自分の大切さに目覚めていくということだ。その人間的な目覚めをもたらした力は、「あなたの信頼があなたを救った」と告げたイエスの言葉にあった。

4. イエスの言葉がもたらした人間的な目覚めは、バルティマイ物語の民衆世界を想起すれば、容易に理解できる。紀元一世紀のユダヤ民衆は、エルサレムの神殿宗教が支配する社会を生きていた。神殿宗教を司る祭司は富裕な権力者層で、彼らは、高みから民衆を見下し、宗教的戒律を弁えない民衆は神の前に穢れた不信心な輩だとしていた。とりわけ病者、女性、特定の職業者、異教徒などが最悪の連中だと見做された。

5. その最悪とされた民衆のひとりバルティマイに、「あなたの信頼があなたを救った」と、イエスは告げる。イエスは、宗教的支配層が顧みない民衆の中にこそ、神に信頼して生きる勇気を持つ人を見出していた。このようなイエスの思想が宗教的支配層の敵視を招いたのは当然だ。なぜなら、一度、イエスの言葉を受けとめた民衆にとって、イエスの言葉は、神の前に価値ある尊厳を持った人間である自分を発見することを意味したからだ。こうして、マルコの語るイエスの治癒物語は、単なる治癒の奇跡を語る物語ではない。民衆が神の前に自分を発見する物語。人間解放の物語でもあったと言わねばならない。

6. このような物語として、あらためて民衆バルティマイの物語を受けとめたい。バルティマイの人間としての喜びの深さを想像できれば、彼のイエスに対する応答が、他の選択など考えられない喜びの応答だったことが分かる。先ず、イエスがバルティマイに対して「お行きなさい」(10:52)(命令ではない)と、日常生活に戻ることを促す。しかし、バルティマイは、そのイエスの言葉に従わない。イエスの促しに従わないことに、バルティマイの喜びと人間的意志の堅固さが示されている。バルティマイは、イエスに対して、戻りません、私はここであなたに従うと決めましたと答える。ギリシャ語原文を直訳すれば、マルコは、文字通りバルティマイが「道で従った」と記している。

7. この経緯を告げる10章52節を、新共同訳では「盲人は見えるようになり、(なお)道(を進まれる)イエスに従った」と訳す。これは意訳と言うべき。「なお」「進まれる」の二つの日本語は原文にはない。しかし、あえてそれらの言葉を訳に付け加えている。あえてそう訳したのだとすれば、その意図は10章32節との関連付けを図ろうとしたからだろう。32節は、「一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」と語っている。新共同訳は、この一節に52節とのつながりをつけることを意図したと考えられる。つまり、バルティマイを、十字架の受難の場に向かうイエスに従った信仰の理想の人物として描く。しかし、新共同訳はやはりマルコの原文を離れた後代のキリスト教徒のバルティマイを理想化しようとする意識を読み込み過ぎている。

8. マルコ自身は、バルティマイは「道で従った」としか記していない。いわば、マルコは、後代のキリスト者のようにイエスの受難の前途を全て知ったうえで、それを読み込んでしまうような意味で、バルティマイが従ったと書いたわけではないことは確かだ。やはり、マルコの記述をそのありのままの原文に即して聞き取るのが適切だ。

9. 自らがわが身をおいたそこでイエスに従い始めたのが、マルコの記したバルティマイの姿だ。私は、そこにこそ大切なメッセージを見る思いがする。たとえ、いまだ、イエスのすべてを知ることがなくても、人はイエスに従う決断ができるのだというメッセージだ。そのような決断から始まるイエスに信じ従うという「信従」の体験が、キリスト者の誕生の時代からありえたのだ。そういう決断と信従の歩みが、マルコの伝えたバルティマイ伝承の背後に浮かび上がってくる。それを、「道で」イエスに従い始めたバルティマイの姿が象徴しているのではないだろうか。

10. そして、一度、イエスに従う決断をたどり始めるならば、冒頭で紹介したある人の告白を再び思い起こしたい。「イエスと共に歩む体験は、始まりはあるが、終わりのない体験である。なぜなら、それは常に新しい体験を歩むことを意味しているからだ」。この言葉は、きっと私たち一人一人のものになる。なるほど、自分の限られた一生においてイエスを知り尽くすことはできないことだと思う。まさにイエスを知ることは「終わりのない体験」と言わざるをえない。先に終わるのは私たちの人生の方だから。

11. そのことを知りつつ、なお、大切にしたいことがあると思う。それは、私の人生は、イエスと共に歩むものであったという事実そのものだ。イエスと同行する事実そのものが、一人一人の人生のかけがいのない宝となるということだ。そこには生きた喜びがある。人生は誰もが、その終わりに向かって歩みをとどめることができない。日毎、日毎のイエスとの同行を確かめ深めて最後まで、イエスとの「新しい体験」をたどっていこう。Ω

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