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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■過越しの食事
いわゆる「最後の晩餐」は、「最初の聖餐」とも言えるでしょうか。「これはわたしの体」「わたしの血」主イエスがそう言われたのは、ユダヤ教伝統行事である過越しの食事でのことでした。過ぎ越しの食事は、かつてエジプトで奴隷であったイスラエルの民を神が導き出された故事を記念する食事です。主イエスの時代、過ぎ越し祭には、すべてのユダヤ人の成人男性は、エルサレムに巡礼し、神殿で小羊を犠牲として屠り、その肉を使って家族や友人知人と共に過ぎ越しの食事をしました。しかし、どこで食事するかが問題です(律法には、寄留者のために宿を提供せねばならないという定めがありました)。弟子たちが主イエスに尋ねています。「過ぎ越しの食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」(12節)。主イエスの指示通りに事は運び、無事に食事が始められました。ところが、主イエスの発言がその場を凍らせました。「あなたがたの内の一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)。

■存在を問う
「まさか、わたしのことでは」。弟子たちは恐ろしくなったでしょう。また悲しくなったでしょう。しかし、その場ですぐさま主イエスに反論することはできませんでした。自分もまた主イエスを裏切る可能性を秘めた一人であることを完全に否定することは誰にもできなかったのではないでしょうか。オリーブ山に移動した時、ペトロを初めとして、ほかの弟子たちも皆こぞって言いました。「自分は死んでもあなたを知らないなどとは決して申しません」。しかし、その言葉が所詮、その場を取り繕ったものでしかなかったことは、間もなく明らかにされるのでした。
食事の席で、裏切り者について主イエスが言われます。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった」(21節)。全く耳を疑う受け入れがたい言葉です。しかし、この言葉を私たちは傍観者的に聴くべきではありません。ほかの誰かではなく、この私に向けて投げかけられているのだ、として聴かなければならないと思うのです。一人一人が、この言葉の前に立ち止まり、存在を根底から問われているのです。なぜなら、「裏切り者」とはわたし自身だからです。神に愛されて、生かされている者が、この愛から遠ざかり、この愛を傷つける生き方に陥っているならば、それは裏切りなのです。そして、その時、主は問い掛けるのです。「それではあまりに不幸ではないか」「あなたの幸せとはなにか」と。主イエスの言葉は、非難ではなく嘆きと問いなのです。
主イエスは「お前なんて最初から存在すべきではなかったのだ!」と呪い、裁いているのではありません。「生まれてきて良かった」と思える人生の幸いとは何かを問うておられるのです。神の愛という事実を見失う時、わたしたちは自分自身を見失っているのです。その場の自分の思いや都合に左右され、虚無の中を漂って生き、挙句に「ああ、自分など生まれてこなければ良かった」と、自らを肯定できなくなります。事実、私たちの多くはそんな思いに悩んだことがあり、あるいは今、悩む者が大勢いるのです。
「あなたはなぜ生まれ、あなたの幸いとは何だろうか」。わたしたちは常に、この主の問いの中に置かれています。

■「まさか、わたしのこと!?」いや、「まさに、わたしのため!」
主イエスは、パンを裂き、そして杯を回して言われます。「取りなさい。これはわたしの体である。」「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(23、24節)
伝統的に、過ぎ越しの食事中に、このような台詞はないわけで、弟子たちには、その言葉も意味が分からなかったでしょう。しかし、やがて、あの日、分かち合われたパンと杯に込められた恵みを知りました。すなわち、主イエスこそが、真の犠牲の子羊となられたこと、この方の死によって、神の裁きは過ぎ越し、私たちは罪の奴隷から解き放たれ、神の導きによって神の国へと至る望みが与えられたのだ、ということを。極みまで愛され続けているわたしなのだ、と。
「まさか、わたしのことでは」かつてそう自らを問われ動揺した弟子たちは、思ったことでしょう。主イエスの死は、「まさに、わたしのため」だったのだと。
主イエスは、裏切る者たちのためにご自身を与えました。主を忘れ、主に背いて生きるに違いない私たちのために、それでも命を配られました。その愛がその赦しが、この私を良しとし、この私の今日を生かし養い導いています。その限りのない愛が私たちの今日に問いかけます。「あなたの生きる幸いとはなにか」。
主の愛に養われながら、この愛に応えて自分の命を用いていく道を、「ああ、生きていて良かった」そう感謝する道を模索しましょう。

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