札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■神の時は満ちて
クランツにろうそくがともり、本日から、アドヴェントが始まりました。毎週ろうそくが1本ずつ灯されていき、輝きを増していきます。これは「神の時が満ちている」ことを表している光です。この世界の状況を見れば、戦争や災害、人間の罪と悲しみ、絶望が満ち溢れ、力ある者たちが傍若無人に振る舞い大勢の人々の命を翻弄しています、分断の溝、その傷は広がっています。しかし、そうした人間の力や思惑をはるかに超えて、神の御業はアルファからオメガへと、完成へと進められています。その神の時の中にあって一切の事柄は移り変わっていく相対的で、暫定的なものであるということを弁えながら、見極めながら、身を置くものでありたいと思います。
■待ち望む
アドヴェントは、「到来」と意味する言葉です。神がその愛と憐れみをもってこの世界を治められるその終わりの時が到来する、人間の計りごとではなく、神様の計りごとが、この地に成し遂げられるその到来を待ち望むのです。それゆえ、待ち望む信仰は、「今この時の現実を諦めない」信仰です。たとえ今が、自分にとって悩ましく、受け入れがたくとも、主はその一切を捉え備えたもうことを信じ、望み、これを引き受けていくということです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」というパウロの言葉にも表されている通りです。しかし、それは容易なことではなく、互いの祈り、励ましを必要とする闘いです。まさにそうして教会という群れが神によって集められ、形成されてきたのです。
■後ろ向きで前に進む
主は備えたもう、この信仰を支える根拠となっているのは、2000年前、すなわちこの歴史の中に、預言の成就、約束の実現としてイエス・キリストが到来されたという事実です。確かに神の約束は、飼い葉桶において、また十字架において実現された。神はそこでご自身の完全な愛と赦しを示してくださった。その過去の事実が、今を生きるわたしを支え、また、主の備えたもう将来の実現を照らしているのです。ボートは後ろ向きに座って漕ぐことによって進むように、明日のことを知らぬわたしたちは2000年前のキリストの到来・降誕という事実に、神の愛と赦しを信じ見つめ、今この時を生き、そして主が備えてくださる未来へと進んでいくのです。
■思いがけない時、それは始まっている
聖書には、福音書にも、パウロの手紙にも、黙示録にも、終末に関する具体的な描写があります。しかし、信仰生活にとって、終わりの日にどういう具体的なことが起こるかということは本質的な問題ではありません。何が起こるかということを知ったからといって、得をするわけでも、損をするわけでもないのです。
「その日、その時は誰も知らない」(36節)。「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(44節)と主イエスは言われます。要するに、終末についての実に壮大な描写が物語っていることは、わたしたちとって、それほど「思いがけないこと(時)」であるということです。しかし、そこで思いますのは、私たちにとって、思いがけないのは、何も終末だけではなく、そもそもわたしがこの世に生まれ、そして今日生きているということ自体、全く思いがけないことなのであり、私たちは皆、思いがけない世界、思いがけない今を生きているのです。そこで私たちが問うべき問題は、「いつどのように終末がやってくるか」ではなく、「人生とは思いがけないものだ。この思いがけない人生を、今をいかに生きるか」なのです。
このことは、先週の聖書箇所で、主イエスが言われたことに通じます。「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(25章40節)。具体的な目の前の一人において、主は思いがけずわたしを訪れておられるのかもしれません。終わりの時は、まだ来ていない、実現していない、なお未来のことでありながら、しかし、もう始まっているということです。讃美歌575番の歌詞「球根の中には花が秘められ」「さなぎの中からいのち羽ばたく」「寒い冬の中、春は目覚める」、「沈黙はやがて歌に変えられ」「深い闇の中、夜明け近づく」「過ぎ去った時が、未来を開く」「いのちの終わりは、いのちの始め」。これらは、いずれも、今はそれが目には見えないけれど、思いがけず既に始まっている主の御業を見つめています。
■主は近い
ろうそくが一本ずつ灯されていくこの時、このろうそくは、主の訪れをその近さを物語っています。今週、出会う一人の隣人にも、一つの出来事にも、主の訪れを見つめるようにと、わたしたちを促しているようです。「目を覚まして生きなさい」と主イエスは言われます。処理しきれないほど多くの情報が飛びかい、何が正しく何が嘘か見分けがつかないような状況、互いに疑いあい、憎しみ合い、惑わしあい、多くの人の愛が冷えてしまう時代の中にあって、そこでイエスの訪れを見つめる、その足音に耳を傾けて、隣人に接することです。そのように目を覚まし、備える一日一日をここから始めたいと願います。
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