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■終末主日と収穫感謝
来週からアドヴェント。教会暦では新しい一年の始まりです。つまり今日は一年で最後の主日です。教会では「終末主日」と呼び慣わして来ました。この日が「収穫感謝」として教団で定められていることも意味深いものがあります(北光教会では11月第1主日に行っていますが)。蒔かれた種が育ち、やがて収穫されるように、やがて終末という刈り入れの時が来ることを覚えて一年を終え、そして、主の再び来られる再臨を待ち望むアドヴェントが始まっていくのです。
「終末」という言葉に、胡散臭さを感じる人は少なくありません。でもそれを収穫と言えばどうでしょう。種蒔く人が、その実りを刈り入れにやって来るのは至極当然です。もしも、私たちの命が、地上に蒔かれた後はただ捨て置かれる存在に過ぎないとするならば、主イエス・キリストが、かつて、神の愛や命の喜びを告げるために、この世に来られたという出来事も、所詮は「慰問」でしかないということになるでしょう。

■主を待ち望め
しかし、主は再び来ると約束されました。わたしたちは世にあって、来るか来ないか分からないような得体の知れないものを、不安げに待つのではありません。わたしたちを愛される主は、ただ約束するだけの方ではなく、それを実現される方であることを、聖書から繰り返し確かめつつ、その日その時を安んじて主を待ち望むのです。そして、この日この時、自分に与えられている課題を、信仰と希望と愛を込めて担い直し、また共に担い合いながら生きていくこと、それが信仰生活の全体像です。
聖書は呼び掛けます。「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れる時に与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(13節)「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出して下さった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」(14・15節)
「心を引き締めて主を待ち望む」ということは、「生活のすべての面で聖なる者となる」ことです。このあまりにも無理難題と思われる要求に反感を抱く方もおられるでしょう。それでも神が、わたしたちを公平に裁かれる時が来るというならば、わたしたちの内、誰がその日を待ち望めましょう。

■父として、子として
聖書はそう言ってわたしたちの不安を煽っているかのようで、しかし次のように続きます。「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼び掛けているのですから(略)」(17節)
神様を「父」と呼ぶ。ここには自分は神様の子どもであるというリアルな感謝と信頼があるのです。主イエスが神様を「父」と呼ばれたことに倣って、わたしたちも同じ関係へと招かれた者として、感謝と信頼をもってそう呼ばせて頂くのです。
「生活のすべての面で聖なる者となる」なんて、どだい無理な話に思えますが、それは要するに、「あなたの生活のすべての面、すべての状況において、神が父として、子であるあなたを愛して生きておられるという事実をただ一つの拠り所として歩みなさい」ということです。

■これぞ福音
「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」とイザヤ書から引用されます。
人は皆、草や花のような存在だ、との主の言葉を、イスラエルの民はバビロン捕囚の絶望の中で聴いたのです。エルサレムの町も神殿も壊滅し、どうしようもない挫折と諦めに押しつぶされそうな中でだめ押しのような一言です。「しかし」と続きます。「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」、これこそあなたたちの福音だ、希望だと。あなたを愛すると決断した主の言葉は枯れない、挫折しない。わたしたちはこの愛の言葉が真実であることを、主イエス・キリストという「神の言」の降誕、その死からの復活の出来事の中に見たのです。

■キリストの涙
主イエスは、再び来ると約束されました。わたしたちは、次の詩編の言葉と共に主を待ち望みつつ、今日を生きましょう。
「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」(詩編126)
「涙と共に種蒔く人」、主イエスがその人だとの視点で読むこともできましょう。主イエスが世に来られ、その生涯において流した涙はいくつもあったでしょう。しかも、それは決して諦めや絶望の涙ではなく、「この人」を愛するが故の涙です。その涙は、今日もわたしたちのために、また誰かのために流されています。もしかすると、わたしたち自身が誰かのために流される主の涙の一滴なのかもしれません。その主の涙は、歓喜の歌と共に刈り入れるその日へと確かに続いています。

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