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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■「自分、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」
主イエスは、今日、わたしたちにもそう告げられます。「あなたが負うべき十字架があるのだよ」と。その「十字架」を通して、神がその御心を実現されるところの務めです。私たちは、それがどのような御心なのかを知りません。当然そこには恐れ、戸惑いが生じ、抵抗が生じるでしょう。しかし、主イエスは、十字架の死から復活された方として、「このわたしに従ってきなさい」と招かれるのです。この主イエスを信頼し、私たちも自分の十字架に秘められた御業を信じて生きていくのです。
皆が何らかの「自分の十字架」を背負っていることでしょう。降ろしたくても降ろせない課題があり、悩みがあり、苦労があることでしょう。仕事、学業、人間関係、病、老いということもそうでしょう。自分の思い通りには決してならない煩わしい重荷がある。しかし、それを神様の手から引き受けて、神様の御心こそがそこでなされることを信じ、決して欺くことのない主の愛を信じて歩むのです。

■先頭に立つイエス
32節「一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭に立って進んでいかれた」。神への信頼をもって、十字架の待つエルサレムに向かい、弟子たちの先頭に立って進みゆかれる主イエスの姿に、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れ」ました(32節)。その驚きと恐れは、そのように神を信じ切ることができず、また自らを捧げきれず、従いきることのできない彼ら自身の恐れと戸惑いを表していることでしょう。しかし、主イエスは、先頭にたって「わたしに従いなさい」と、彼らがその恐れの中から一歩を踏み出すように招かれるのです。
しかし、35節でゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスの前に立ち塞がりました。「先生、お願いがあります」「あなたが栄光をお受けになる時、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人は左に座らせてください」
彼らはガリラヤ湖で漁をしていた時、船と父親をその場に残したまま主イエスに従いました。しかし、ここに至ってその彼らの心にブレーキがかかるのです。先だって、ペトロは、主イエスがご自分の死を予告された時に、メシアであるあなたが死ぬなんてことがあってはならないと主イエスの言葉を遮りましたが、今度はヤコブとヨハネが、別の形で主イエスの歩みを遮るのです。それは、「自分たちは死にたくなどない!」「願わくは栄光が輝くような人生を生きたい!」という気持ちの表れです。実に「正直」な彼らの発言は、わたしたち皆の思いを代表しるのではないでしょうか。

■洗礼―その苦難と喜び
願い出た二人に対し、主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない」と言われました。この言葉には、あなたという人間の人生における本当の望みは何なのか?自分の栄光、誉れ、権力、そうした自分の満足、充実、平安、それらはあなたにとって真実な望みに足りうるのか?という問いが込められています。そして、「(あなたがたは)このわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」と言われました。一般的に「プロの洗礼を浴びる」といった表現がされますが、この聖書箇所が元にあるのではないでしょうか。主イエスが受ける「洗礼」とは、十字架の死・苦しみのことです。洗礼を受けるというのは、新しい命の始まりを意味すると同時に、苦しみを味わうことをも意味します。両者は二つで一つです。十字架という苦難の先に復活という出来事が示されたように、わたしたちがこのイエス・キリストと共に生きる証しとしての洗礼は、わたしたちもまた主の備えて下さるその時を信じて「自分の十字架」を背負って生きていくということです。教会に受洗者が与えられる喜びは、単に教会に人が増えることではありません。共に主に従い、自分の十字架を背負って生きていこうとする仲間が与えられた喜びです。互いに苦しみを担いながら、み言葉によって励ましあいながら歩んでいくことができるということを喜びです。

■仕えるために
何を望んで生きていくべきか。主イエスは、皆に仕える者になること、すべての人の僕になること、ご自身がそうであるように、仕えられるためではなく、仕える者になること、人を自分の支配下に置くことではなく、すべての人の僕になること、そうして自分を捨て、自分を献げることを求めました。他者のために、隣人のために、仕えること、互いを尊び愛しあうこと、ここに人が人であることの真の幸いがある。そこにこそ、あなたの魂が本当に望んでいる幸いがある、あなたの命がある、と言うのです。私たちが毎週、前にするこの十字架は、その道を私たちに示しています。
2022年度が始まりました。これまでのように活動が出来ない2年間を歩んできて、どうするべきかと悩み、何かしなければと焦ります。しかし、教会は、そうした人間の思いが先行するものではなく、神の言葉に聴くことによって形づくられていきます。共にこの十字架を見つめ、互いに自分の十字架を担い、互いに仕え、その先にこそ表される主の業のために励んで参りましょう。

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