札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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日本基督教団札幌北光教会は、1896年(明治29年)に設立されたプロテスタント(会衆主義)のキリスト教会です。日本における会衆主義教会は、各教会の自治・独立を尊重するという意味で「組合教会」とも呼ばれました。1941年に日本基督教団に合同し、今日に至っています。
日本組合基督教会札幌講義所設立(1895)〜札幌組合基督教会設立(1896)まで
1895年(明治28年)5月、米国伝道会社(アメリカン・ボード)は、札幌に北海道伝道局を開設する目的で、仙台の“東華学校”で教鞭を取っていた宣教師ウィリアム・W・コルテス及び宮城基督教教会主任伝道師を辞した伝道師田中兎毛の二人を派遣した。5月11日、札幌に着いた彼らは停車場通りの旅舎山形屋≠ノ宿を取り、早速伝道局開設の準備に取りかかった。
当時の札幌は人口2万7000人、日清戦争後の好況の波に乗り、北海道の首都として大いに繁盛していた。このころは既に札幌バンドによる札幌基督教会(現・札幌独立教会)、札幌美以教会(現・日本基督教団札幌教会)、札幌日本基督教会(現・日本キリスト教会北一条教会)、カトリック北一条教会、ハリスト顕栄教会(ハリストス正教会)があり、聖公会も札幌での伝道を開始していた。ほかにスミス女学校(現・北星学園)も開校しており、札幌農学校では札幌バンドの佐藤昌介、大島正健、宮部金吾、新渡戸稲造らが教壇に立っていた。このように札幌はキリスト教的色彩の豊かな町として急速な発展を続けていたのである。
この頃、札幌には本州から渡道した組合教会関係の信者がいたが、彼らの多くは札幌基督教会(現・札幌独立教会)に転会しており、わずかに長浜教会の藤井太三郎、今治教会の石田幸八、大阪教会の野澤小三郎の三人が残っているのみだった。したがって組合教会内部にも札幌に伝道局を開設することは時期尚早とする意見もあったが、彼らの教会設立の希望は大きく、コルテスと田中は講義所の設立を約束してひとまず札幌を離れた。
かくして同年7月1日、田中兎毛は再び家族と共に来札、北1条西三丁目に仮寓し牧会の第一歩を踏み出した。7月14日、田中宅で最初の相談会が開かれ、石田幸八・野澤小三郎・藤井太三郎・松原儀八・田中兎毛のほかに岩見沢講義所の内田政雄牧師も臨席して次の三件を議決した。
同年(1895年)8月6日、コルテス宣教師が家族と共に来札、陣容も整い、各集会も着実に開かれるようになってくるにつれ、集会所の必要が起り、8月15日、南一条西三丁目に一軒の家を借り、これを仮の集会所とした。
その年の10月13日には、初めて二大礼典(洗礼・聖餐)がもたれた。この日、従来講義所で集会を守って来た人々は、すべて所属教会から転会し、当日の受洗者1人を加えた総勢17人の“教会員”は規約を設け、役員を選出し、キリストによる一致と団結を誓い合った。
注目すべきことは、これら会員のうち実に7割は商人およびその家族であった。藤井太三郎・専蔵(油商、紙商)、野澤小三郎(印刷業)、石田幸八(砂糖商)、村田正一良(印刷業、菓子商、銭湯業など)、藍健二郎(炭商)という具合で、なかには当時の札幌で相当な経済力を持つ者もいた。このことはその後教会形成の上に大きな影響を及ぼし、長い間、私たちの教会の独特の雰囲気を生み出していた。
従って伝道の対象も必然的に商人仲間や使用人に向けられ、ますます商人の教会≠ニしての色合いを深めていった。
1896年(明治29年)9月の臨時総会で教会設立を決議、同10月4日に設立式を行った。当日、田中兎毛は按手を受けて、初代牧師に就任した。その後も1898年(明治31年)まで札幌基督教会から組合教会関係信徒の転会が続き(石原源蔵、松原儀八、中村信以ら)、新たに本州から渡道してきた信徒(村田・野澤の親族である竹原八兵衛・エン、河岸万右衛門・タツら)や新たな受洗者らと共に教会が形成されていった(教会員数は設立1年後45名 2年後61名 3年後87名と増加)
『七十年の歩み』(日本基督教団札幌北光教会発行)より(一部加筆・修正)
最初の会堂は、田中兎毛が南一条西三丁目八番地裏通り(現在の三越裏あたり)に借家をした際、その一部を集会所として使用したものであった。
近く新築される美以教会(メソジスト)の旧会堂(南一条西二丁目一六番地 現在の丸井今井裏通りあたり)を買い入れることが決議された。
8月に修繕・模様替えをした上で同年9月5日移転式を挙行した。
北一条西三丁目(旧道新ビル)の元札幌県令調所広丈の土地140坪を借り、教会員で大工の松原儀八によって会堂が建築された。ただし、教会はこの会堂をあくまで仮の会堂として認識し、将来の本格的な会堂建築を展望していた。
会堂建築計画が起こった。日露戦争の勃発、土地購入上の問題、資金不足など幾多の困難を伴い実現が危ぶまれるほどであった。
南一条(大通)西一丁目に煉瓦造りの会堂を建てた(前会堂と同じく、教会員の松原儀八による)。 なお、北一条西三丁目の旧会堂は、札幌福音伝道館(札幌ホーリネス教会、現・札幌新生教会)に譲渡された。蔦が絡むこの会堂は、創成川沿いの代表的な札幌の風景として、しばしば画家たち(三岸好太郎、田中忠雄、伊藤仁など)によって画題とされるなど、市民に親しまれた。
陸軍被服本廠札幌出張所は市内キリスト教会に対して軍需品倉庫として2箇所を提供するよう要求し、同年3月、札幌北光教会が接収を余儀なくされた(もう一つは札幌独立教会 当時・大通教会)。この困難に際し、日本基督教団札幌教会の好意で北一条東6丁目にある明星幼稚園舎が提供された。
55年間に亘り愛された会堂は老朽化により解体され、その東隣(北光幼稚園は現在の厚別区青葉町に移転)に地下1階・地上5階建、高さ40mの尖塔を備えた近代的な会堂が新築され(教会員・池田恵の設計、施工は大成建設による)、12月7日に献堂式が挙行された。