札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■「求めなさい、そうすれば与えられる」
あなたがたの天の父である神は、あなたの求めに必ず応えてくださるに違いないのだから、神を信頼し、望みとして挫けてはならない、諦めてはならない。何事も諦めずに忍耐強く探し求めることの大切さについて教えられています。その通りに信じられたら、そしてこの通りの結果となるならば、どんなに良いことでしょう。しかし現実には、パンを求めたのに石が与えられ、魚を求めたのに蛇が与えられ、全く欺かれたという思いで、失望する人々がどんなに大勢いることでしょう。平和を求めても爆弾が落とされ、健康や回復を求めたのに治る見込みも薄い病気を得、現状から脱するために力や富が必要なのに、弱さや貧困の中に構造的に閉じ込められている、そんな現実があるのです。主イエスは、ガリラヤの多くの民衆の悲惨で不当な現実を知らなかったはずはないでしょう。力や希望を奪い取られた人々を前に、神の愛をただ耳障り良く語ったり、一層の忍耐を求めることがどんなに残酷なことであるか、主イエスは分かっておられるはずです。
■自分の中に他者を、他者の中に自分を
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(12節)との結論は、実に意外です。前半部分で、「求めよ、探せ、叩け、そうすれば神は必ずお応えくださる」と忍耐と希望を教えているかと思いきや、神がそのようにあなたの求めに必ず応えてくださるように、あなた自身もまた、自分がこうしてもらいたいと思っていることを、人にしてあげなさい、と他者の存在を示し、他者への思いやりを促しているのです。自分がいま切に求めていることのために悩み苦しみを覚えるような中にあるとして、まさにそこで他者を思いやること、他者の悩み苦しみ、空腹、恐れ、孤独に思いを至らせることができるか、自分自身の中に他者の存在を確かめ、また他者の中に自分自身を重ねて見つめて生きることができるかどうか、そのことこそが教えられているのです。実は、あなた自身が誰かにとっての神の愛そのものとして存在しているのではないか、あなた自身がそうして求められ、探されている者なのではないか、との気づきを促しています。
■余地を無くする丸太を取り除け
しかし、わたしたちにはそれを妨げるしがらみがあります。そのことを良く表しているのが1節以下の事柄でしょう。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』とどうしていえようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」
大きな丸太が自分の目の中にありながら、どうして他人の目の中の小さなおが屑を取り除くことができるか、それで人を裁き、測るなどとはなんと本末転倒か、という指摘です。主イエスは、「あなたの目の中に丸太があるかどうか確認しなさい」といっているのではないのです。気づいていないだけで丸太はある、のです。そして、それを取り除けというのです。
「自分の目の中の丸太」というのは、要するに、それがあることによって、自分の目の中に他者が映らなくなってしまうのです。自分の目の中は丸太で一杯になり、他者を存在を受け入れる「余地」が無いのです。その結果、その人を排除してしまうのです。
自分自身の中に他者の存在を確かめ、また他者の存在に自分自身を重ねて見つめて生きることをできなくさせる丸太、それは、人間の「高ぶり」や「正しさ」のことだと言えるでしょうし、この箇所の前には、「思い悩むな」と教えられています。自分のことで思い悩み、一杯になる。それも時に他者の存在を見えなくさせる丸太だと言えるかもしれません。主イエスは、そこから解放されて生きることを求めています。
■至らなさゆえに
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい」という教えに対し、ある人は言うでしょう。「自分が求めていることと、人が求めていることは、必ずしも同じとは限らないではないか」と。確かに、自分が良かれと思ってしたことが、自分の思い過ごしや余計なお節介、かえって迷惑になるということは良くあるでしょう。以前、ハンセン病療養所の中にある教会で代務牧師をしておりました時に、別の教会のある方が訪ねてこられて、療養所に入所している教会員にリンゴを差し入れました。しかし、その方は、病気の後遺症で指先の抹消神経が麻痺し、また変形しているために、自分で皮を剥くことができなかったのです。このことで「なんと配慮のないことか」「無知は罪だ」と批判する人の声を聴きました。しかし、そのリンゴには確かにその方への愛が込められていたと思います。わたしたちの愛など至らないこと、失敗だらけです。しかし、その至らなさのゆえに、他者に出会っていくことができるのだとも思わされます。生活困窮者のためにお弁当配布を行っている教会の方がおっしゃっていました。「やらない理由、できない理由を挙げるのはいくらでもできるが、そうするほど教会は衰退していくのではないか」。北光教会は、この私は、どこに立ち、誰と共に生きるのか。目の中の丸太を取り除いてみるようにと求められています。神様がどのように、どれほどにこの私を、そしてあの人を愛し、赦し、大切にしてくださっているのか、神の眼差しをもって歩むよう、復活の主イエスは招き、聖霊によって導こうとされています。実は、わたしこそ主イエスから、求められ、探され、門を叩かれているのではないか、その気づきから歩みだしたいと願います。
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