札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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◆パウロ、エルサレムへ
聖霊は、人間の利己的な思いを、またその思いが作り出す他者との隔てを越えて自由へと導きます。パウロという人間は、まさしくそのように隔てを越え、自由へと召された人でした。彼の異邦人伝道を通して各地に教会が生み出されました。パウロは、エルサレムのユダヤ人教会と異邦人教会とが、主にあって一体である連帯の証として各地で献金を集め、これ届けるためにエルサレムへと向かいました。パウロの同行者は、エルサレムに向かおうとするパウロを再三引き留めました。それはパウロにとって自ら死に選ぶに等しい無謀な行動に思えたからです。しかし、当のパウロは、自分に決められた道を最後まで走り通し、恵みの福音を力強く証するという務めを果たすためならば、命すら惜しくないと決意していました。同行者たちは、「御心が行われますように」と言って口をつぐみ、一緒にエルサレムへ向かいました(21:14)。どこか、主イエスがゲッセマネの園で祈られた言葉と重なります。それは「もう、どうにでもなれ」という言葉ではなく、主が常に心に掛け、最善を成して下さるという信頼をもって進んでいこうとする自由の言葉です。
◆自由
エルサレムのユダヤ人キリスト者たちは、パウロに対し危惧を持っていました。エルサレムに数万人いるというユダヤ人キリスト者はなおもユダヤ教の伝統である律法と割礼を重んじていましたが、パウロはそれを軽視し、禁止しているという不当な噂が広まっており、パウロがエルサレムにいるとの情報が広まると騒動になるかもしれないということでした。更に言えば、そのことが引き金となって、キリスト者全体に対する迫害につながりかねないという不安もあったのでしょう。そこで彼らは一つの提案をし、パウロはそれを受け入れました。それは、律法の定めに従って剃髪することになった4人のためにその費用を拠出することでした。これに協力することで、パウロが律法を尊重していることの証明となり、疑念や反発は起こらないだろうとの公算です。パウロ自身は、律法に束縛されない自由を生きています。しかし、だからといって他者が重んじる伝統を裁いたり、禁止したりせず、むしろ尊重したのです。自らの自由な態度が他者を躓かせないよう、自分の自由を抑制する、それもまたキリスト者の自由の一つです。
主イエスは、神に等しい方であるにも関わらず、神であることに固執せず、私たちと同じ人間になられた(フィリピ2:6)。神が神であることを棄て、僕(奴隷)となって仕え、罪人にさえなって下さった。神こそ自分を棄てる自由を生きられたのでした。そして、パウロは、この神の霊に導かれて、自分を捨て、またこの先にある自分の十字架というべき苦難を引き受けようとする、そんな自由を生きたのです。
◆騒乱の中の静けさ
思いがけないところから事件は生じました。神殿の境内でパウロはユダヤ人たちに捕らえられ、暴行され、エルサレム中が混乱状態となりました。事態沈静化のためローマの千人隊長によって守備隊が動員され、パウロは鎖でつながれました。これ以降パウロはその身体的自由を奪われます。この騒乱の中に、「静けさ」が3つあります。1つは、今日の聖書箇所中にパウロの台詞は1つもないということです。緊迫した事が刻々と記されます。もう一つは、エルサレムのユダヤ人教会です。パウロを巡って騒動が起こった時、ユダヤ人教会は、自分たちにまで危害が及ばないためか、パウロに対し何ら助けの手を差し出そうとはせずこの後も沈黙を貫きます。そして、もう一つの静けさとは、この状況の中に働く聖霊です。21章11節で、アガボという預言者が言いました。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す』」。群衆の怒号が飛び交い、いろいろな人間の画策がうごめき、なんの希望もないような状況、しかしそこで聖霊の言葉は成就しているのです。この騒乱の中ですべてを治めているのは神であるということです。
◆万事の始まり
キリストの受難物語に重なるような、パウロの受難物語です。主イエスの死が復活へとつながっていたならば、パウロの受難とその後の死は何につながったでしょうか。万事休すとも言うべき状況は、むしろ万事の始まりでした。使徒言行録ならぬ「聖霊言行録」は、むしろここから始まっていくのです。聖霊は鎖につながれず、人間の思いを、様々な隔てを越え、そして時を超え、今日ここに集う私たちに続いています。それはあまりにも話が飛躍しているように聞こえて、しかし、まさにそうなのです。キリスト教会の歴史は、人間の過ちと悲惨に満ちた歴史でもあります。それは人間に対する過ちである以上に、神に対する過ちであります。しかし、それでも神は見捨てることなく、歴史の神として聖霊において働き、導き続けようとされます。今日も、私たちを自由へと、すなわち、互いに愛によって仕えあうその喜びへと導くために、静かに働いているのです。私たち、人生を自分のものとして生きるならば、なんとも不自由な生き方しかできないものでありますが、「御心こそが行われますように」と主に明け渡すことによって広い道を眺め、聖霊が導く一日一日を、また聖霊が与える出会い一つひとつを受け止めて歩みましょう。
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