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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■歴史を導く神
ピシディア州アンティオキアという町のユダヤ教の会堂で、パウロとバルナバは、律法と預言書の朗読を聴きました。すると、会堂長から、この聖書箇所について説き明かし、会衆に「励ましの言葉」を語ってくれるように求められ、パウロは立ちあがって説教を始めたのです。
パウロはまずアブラハムからダビデに至るまでの歴史を辿りました。ここでは主語がすべて「神は」となっています。すなわち、すべては神が恵みと慈しみをもって導いて下さった歴史であるということです。そして、23節からイエス・キリストにつながっていきます。パウロは、聖書に記されたイスラエルの歴史、それは一貫してイエス・キリストへと至る神の恵みの歴史なのだということを説き明かしたわけです。

■神の歴史を生きていく信仰
わたしたちはイエス・キリストについて、イスラエルの歴史を無視した形で、ただ「わたしにとってのイエス」という主観、あるいは私的な好みだけで見ることはできません。旧約聖書は、キリストへと至る神の真実な導きの歴史を語っています。このキリストをわたしたちが信じるということは、そのようにして歴史を導かれた神を信じ、キリストにおいてこのわたしも、神の導かれる歴史の中に生かされていることを信じるということだからです。私たちはキリストにおいて完全に愛され赦された者として神の歴史を歩むのです。神が導く現実の中に立つのです。だからこそ、この現実の中で神の語りかけにこそ耳を傾け、神の御心が成し遂げられていくことをこそ追い求めて働くのです。
「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12章1〜2節)
旧約の時代から長い歴史の中で、夥しい人々の信仰があり、神の憐れみと導きがあり、そして神はついにキリストにおいて救いをもたらして下さいました。この神の歴史につながったわたしたちがここにおり、こうして今日ここで神を礼拝し、イエス・キリストにあって神の導きの中を、たとえ嵐や大波のような時にも忍耐強く、希望をもって歩んで生きいくのです。この希望を神は決して欺くことなく、私たちをキリストと共に生かしてくださるのです。

■励ましの言葉
27節以下で核心部分が語られます。「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです」。人々の無知がイエスを罪人として十字架に架けたこと、しかし、実にその無知の中で、神は世の罪の歴史を徹底的に裁いたのではなく、かえって十字架のキリストを世の罪の贖いとすることで完全な赦しを人間の歴史の中に打ち立てられたのだということ、そして、神はキリストの復活を通して、愛する者を朽ち果てさせることなく、神の子としての祝福に生かして下さるという恵みを現わされたのだということが語られました。
会堂長から、「励ましの言葉」を求められたパウロでしたが、彼が語ったのは、決して誤魔化しやありきたりな励ましの言葉ではありませんでした。人間的な励ましや慰めの言葉ならば、いくらでもあるでしょう。しかし、パウロが語ったのは、イエスの死と復活に至る一連の歴史における、神のまことの励まし、慰めです。
エマオの村に続く道を、二人の弟子が夕暮れに歩いていた時、復活のイエスが追いかけて来て、一緒に歩き始め、イエスが死んで落胆していた二人に語り始めました。何を?それこそ律法と預言書を、すなわち聖書全体を説明されたのでした。その時、彼らの心は燃えていました。わずか数日の悲しい出来事に心塞がれていた彼らでしたが、聖書全体を通して歴史を導く神の愛に触れた時、彼らの心は大いに励まされ燃やされたのでした。そして、エマオの村でパンが割かれた時、イエスの復活という事実に彼らの目は開かれました。主はここからも我らと共におられる。その希望に私たちもまた目を開かれて歩みたいのです。

■変わらない神の言葉
パウロは、「律法によっては義とされない」(38節)と、ユダヤ教の会堂で堂々と語ったのです。大した度胸ですが、当然、この後大騒動につながっていきました。しかし、パウロは、キリストの死と復活について語ることを決して控えようとはしませんでした。神がどんなに大きな愛があなたを、あなたの人生を、この世の歴史を包んでいるか、どんなに豊かな祝福によってあなたは神の子足らしめられているのか、と。
パウロとバルナバが会堂を出る時、「人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」というのです。「来週も同じ説教をしてください」。わたしもこういうこと言われてみたいですが、実のところ、結局は毎週同じことを語り続けているのです。草は枯れ、花はしぼむが、永遠に変わらない神の愛の現実が、わたしたちを捉え、わたしたちに語りかけているのです。

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