札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■「あなたがたに平和があるように」
弟子たちは、戸に鍵をかけ家の中に潜んでいました。今度は自分たちが捕らえられる恐怖の内に、外の人々(世界)に心を閉ざしました。そんな彼らの真ん中に復活の主イエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」と告げました。主イエスが立った「真ん中」とは、彼らの恐怖や不安や疑いの心の真ん中です。主イエスを裏切り、否み、逃げ出した彼らにとって、最も恐れ、心閉ざすのは、ある意味でイエスその方であったことでしょう。しかし、主イエスは、彼らの真ん中で呪いや裁きではなく平和を告げるのです。「平和があるように」とは、まだ実現していない将来の話ではありません。恐怖や疑いに囚われ、他者に対して鍵をかけていたそんな彼らの心の真ん中に、既に主が立っておられること、それ自体が平和なのです。主が自分たちを見捨てず、赦しの愛をもって既に只中にいてくださるという平和です。主イエスは、彼らに十字架の傷跡をお見せになりました。それは主が告げられた平和が、幻や儚い願いではなく、肉となって彼らの間に宿っている(ヨハネ1章)ということの証しです。
このわたしを深く赦し、とこしえに愛し、共にいようと決意してくださる主がここにおられる、この事実によって彼らは立ちあがり、扉を開いて歩み出していったのです。
■赦しと愛への派遣
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。イエス・キリスト、それは独り子を与えるほどに世を愛された神の愛の証しです。そしてこの方が、今度は、あなたたちを世に遣わすと言われるのです。神の愛と赦しを証しする日々への派遣です。弟子としての歩みはここで終わりではなく、むしろここからが始まりだったのです。そして、これは私たち自身の物語です。主イエスは彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。神は、あなたをもう既に赦して下さったのです。神の中には、もはや罪人としてのあなたは残っていないのです。ただ、どこまでも愛すべき者として見出されているのです。この平和が真ん中にあるのです。この平和のゆえに、あなたもまた赦しへと愛へと扉を開いて歩み出していきなさい、あなたから関係を始めていきなさいと告げられるのです。
週の初めの日の日曜日、わたしたちが礼拝堂に集まるのは、ここで「平和があるように」との主の言葉を真ん中に聴くためです。この言が幻ではなく、肉となって私たちの間に宿っていることを知り、ここから主の赦しと愛を帯びて、扉の向こうへと遣わされて行くのです。
■「彼らと一緒にいなかった」
もう一つの物語が続きます。復活の主が弟子たちに現れた時、トマスだけが「彼らと一緒にいなかった」(24節)のでした。先週のイースターは、久しぶりに100名を超える方々と共に礼拝の時を過ごすことができました。けれども、この感染状況の中、そこに一緒にいられなかった方々もいました。もしかすると、自分自身がその一人になるかもしれません。礼拝後に、教会総会が行われます。沢山の課題が教会にある中で、コロナという長く続くこの状況の中で何を忘れてはならないか。トマスに対する主イエスの眼差しがそのことを教えてくれています。
「8日の後」(26節)、主イエスは再び弟子たちの真ん中に現れました。そして、一週間前と同じように、「あなたがたに平和があるように」と告げました。そこにはトマスもいました。主イエスは、一人遅れを取ったトマスに、個別に現れたのではありません。トマスも含め彼ら全員の前に現れることが必要だったのです。彼らが共同体として、共に励まし、支え合い、互いに主の平和を宿して生きていくものとなるために。
■「8日の後」を見つめて
主イエスは、トマスに「あなたの指をわたしの手の傷に当ててみよ」「あなたの手をわたしの脇腹に入れよ」と、あの手、この手でご自分を示そうとされました。2022年度、わたしたちは、教会の交わりを再開していくために、「あの手この手」で工夫して取り組んでいきたいと思います。そこでは、ただわたしたち人間の業が繰り広げられているのではなく、そこに主が働いて下さり、わたしたちを一つの群れとして集め、そこでご自身を示して下さるのです。「8日の後」、そこにトマスが一緒にいたように、わたしたちもまた、ここにいない「あの人」を覚えつつ、皆で共に「わたしの主、わたしの神よ」と告白する「8日の後」を見つめて歩み始めましょう。
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