札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■主において喜びなさい
主にある喜び、それは、嬉しい時だけの、楽しい時だけの喜びではなく、深い悲しみの中でも失われない喜びです。このわたしが、主によって全くとらえられており、誰も何ものもそこから引き離すことはできないという事実です。それは、ある人にはつまらないものでも、これを知るものには、これほど感謝なことはないと思われるものです。自分で掴み取ったものではなく、主がわたしをとらえてくださっているがゆえの確かな喜びです。この喜びをほったらかしにするのではなく、いつも確かめなさいということです。
「あの犬どもに注意せよ、邪な働き手に気を付け、切り傷に過ぎない割礼を持つものに警戒せよ」。パウロが警戒しているのは、彼が獄中で囚われの身であるのを良いことにフィリピの教会にも影響を及ぼそうとしていた律法主義的なキリスト者たちです。彼らは、救いにはキリストの恵みを信じることだけでは不十分であり、それを補完するものとして、あるいは前提として割礼が必要だと主張しました。パウロはこのことに伝道者としての生涯をかけて徹底的に闘ってきたのです。パウロは、割礼を「単なる切り傷にすぎない」と言い放っています。割礼の有無など救いには全く関係ないというのです。もし、これが必要だとするならば、それはキリストの恵みを無にすることに他ならないのです。
■ただキリストの恵みによってのみ
パウロ自身、かつて掟と伝統にどっぷりはまった生き方をしてきたことが5節以下で披瀝されています。ユダヤ人として、血統・知識・正しさ・熱心さなどどれをとっても自分に勝るものはいなかったのです。そのことがキリストに出会う以前のパウロにとっての誇りであり拠り所でした。これらが常に自分を正当化してきたのです。そんなパウロから見れば「割礼と律法が重要だ」と主張している人々など全く生ぬるいのです。けれども、パウロはそうして自慢しているのではありません。これまで自分の保証となってきたもの、自分を満足させてきたものが、実際にはどんなに頼りないものでしかないか、ということをこそ語っています。キリストの恵みを知った今は、それら一切が「損実」というのです。不要なもの、ではなく、キリストの恵みを見えなくさせてしまう点でそれらは「損失」だというのです。
「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(8節)。パウロは、自分の過去の栄光はすべて失ったと言います。しかし、その栄光も、キリストの恵みの中で見るならば、色褪せたものでしかない、本当はそれにしがみつくことも「塵あくた」のように些細なものでしかないというのです。
このような主張は、伝統を重んじる人々からすれば、あまりに急進的で、異端的であったことでしょう。そうでなければ、パウロは獄中に捕らわれたりしていないはず。しかし、パウロは、イエス・キリストにこそ真理を見つめ、真理は彼を自由なものとしました。パウロは、自分が神の前に罪人ではないと言い張ることよりも、あるいは罪を犯さない自分の正しさにしがみつくことよりも、イエス・キリストにある赦しと肯定の光の中で、神の前に言い分や弁解をもたず、ありのままに「自分は罪人です」と言うことのできることに喜びと慰めを見出しました。それゆえにこの恵みに応えて生きていこうという変革がもたらされたのです。
■キリストの苦しみへの参与(コイノニア)
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与って、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(10節)。
「与る」は、「コイノニア」という言葉です。教会では「(主にある)交わり」と言われますね。北光教会には「交わり委員会」があります。「コイノニア」には、共有・参加・参与・結合という意味が含まれます。参加し、つながっていき、分かち合っていくことです。ここではキリストの十字架の苦しみと死につながる(つなげられる)ということです。パウロは、伝道者として自分が味わってきた苦しみ、そして現在ある獄中の苦しみにおいて、キリストとのつながりを強く感じています。
キリストの十字架の苦しみは、過去のものではなく絶えず現在化されるのです。「私のこの苦しみはキリストのあの苦しみにつながっている」ということを知り、それゆえに「キリストがわたしの苦しみにつながってくださっている」ことを知るのです。また、それは自分だけの話ではありません。「あの人の苦しみ・痛みの現実にも、キリストはご自身のものとしてつながっておられるのだ」という他者の痛みへの気づきをもって、そこにつながっていくこともキリストの苦しみに参与することであるという視点を欠かしてはならないでしょう。
私たちは、キリストにつながっている(キリストがつながってくださっている)ゆえに、死の先に復活を、苦しみの先に喜びを、絶望の先に希望を、信仰をもって見つめて進んでいくものとされています。恐れに捕らわれず、目に見える誉れや正しさに捕らわれず、あるいは不平や不満に捕らわれず、「恐れるな、わたしだ、しっかりせよ」そう呼びかける主の言葉とまなざしにこそ捕らえられて、前を向いて進んでいきましょう。
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