札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■昇天
26日(木)は、主イエスの「昇天日」でした。それは世に与えられた神の独り子イエス・キリストの地上での歩みが終わったことを意味する出来事です。使徒言行録1章によれば、雲に覆われ消えていく主イエスを、弟子たちは茫然と見上げていました。しかし、彼らの弟子としての歩みは、空しく天を見上げ、「ああこれで終わりか」と言うためにあったのではありませんでした。十字架の死が復活に続いていたように、主イエスの昇天は聖霊降臨という新たな交わりの始まりを意味する出来事でした。
■世界をその射程に
イエスが弟子たちを離れ天に上げられていったということ、それは誰もイエスを自分のもとに留めて独占することはできないということです。やがて聖霊が降って来た時、人々は様々な国の言葉で神の偉大な業を語り始めました。それは神の愛と祝福がユダヤ・ガリラヤという局地的なものでなく、全世界をその射程とし、すべての人々に及ぶものであるとことを象徴していました。聖霊降臨の光景は、すべての人が隔てなく神との交わりに招き入れられ、神の子としての祝福を互いに分かち合ったということを表しています。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」「わたしはあなたに留まっている」。この主の愛の約束は、すべての人々に告げられるべき恵みです。神は主イエスの昇天と、聖霊降臨を通して、皆が神の子とされた恵みにおいて一つとなる世界を始められたのです。
■道−ひとすじに―
先日亡くなられた教会員の方のお連れ合いの納骨式を江別の霊苑で執り行いました。お墓には既に、先に亡くなられた息子さんの遺骨が納められており、今回その隣にお父様の遺骨が納められました。音楽の道ひとすじに生きた息子さん、農水産業の発展のためにひとすじに生きたお父様を表わすように、墓石には太く大きな字で「道−ひとすじに―」と刻まれていました。この字は、それぞれが神様から人生の道を与えられたことを表わすと共に、「わたしは道である」と言われたイエス・キリストの言葉を表していました。イエス・キリストこそが、それぞれの人生における道でいて下さったということです。
「降」誕と「昇」天は、主イエスが天と地を、神と人とを結ぶ道となられたということです。その道は「ひとすじ」「一途」であります。なぜなら、イエス・キリストは、この世に対する一筋の、一途な神の愛の証しだからです。そしてわたしたちもまた、イエス・キリストの名に拠って祈るのです。それはイエスがわたしたちと神との道であることの証しです。
■とりなしの祈り
主イエスは、十字架の時が来たことを悟り、父なる神に向かって祈られました。1節に「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いでいわれた」(1節)。それまで弟子たちを見つめて語っていた視線が天へと向けられます。そして、弟子たちや人々のために、とりなしの祈りが捧げられるのです。主イエスが一人切々と父なる神に祈る姿は、代々のキリストの中で、「こうして自分が覚えられている、担われている」ということを思わせてきました。主イエスのこの祈りは、ご自身の十字架の死と共に虚しく消えてしまったのではありません。復活され昇天された方として、わたしたちは今日もこの主イエスの祈りの中に生かされているのです。主イエスの祈りこそが、私たちを神と結ぶ道となっているのです。「彼らはあなたのもの、そしてわたしのものです」「彼らのためにお願いします。彼らを守って下さい」「彼らを一つにして下さい」。このキリストの切なる祈りが、昨日も今日も明日も、皆さんの人生の日々に伴っているのです。わたしたちには、主イエスがまるで遠く離れていってしまったかのように茫然と空を見上げ、祈りを失ってしまうような時があります。しかし、この聖書の箇所はそのような私たちに思い起こさせるのです。キリストは今日もこうして祈り、わたしに留まっていて下さると。
■わたしたちも執り成して祈る
イエスがわたしたちの道であるということは、その道に従う私たちも、主イエスが祈って下さるように、他者のためにとりなして祈るという道を選び取ることが求められているでしょう。主イエスによって「互いに愛し合いなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられている私たちですが、まずもって自分の祈りにおいてこのことが問われているように思います。
「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」
(Tテモテ 2:1)。
他者のための祈り。それがコロナによって内向きになりやすい教会にとって今 欠かすことのできないものだと思います。主イエスが祈られたように、私たちも他者のために祈り始めていく時、そこでこそわたしたちがキリストの内に留まっており、キリストもまた私たちの内に留まっておられる(ヨハネ14:20)ことが分かるのではないでしょうか。
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