札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■断食と祈り
「さぁ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい!」。聖霊によってそう迫られた時、アンティオキアの教会の人々は、断食して祈りました。1・2時間で「断食した」とは言いません。何時間もあるいは数日間かけてということでしょう。それだけアンティオキア教会の人々にとって、バルナバとパウロを送り出すことは大きな信仰的な決断でした。断食によって、この先二人が経験するであろう苦難に思いを重ねたのかもしれません。あるいは、自分たちのこの世的な願いや計画というものを断ち、ただ神の御心を尋ね求めることに集中したのかもしれません。送り出すタイミングとしては決して好ましいものではなかったのです。既に12使徒の一人ゼベダイの子ヤコブが殺され、またペトロが投獄される事態が起きていました。多くの人が「無謀」の二文字を思い浮かべるような時であったでしょう。けれども、彼らは断食と祈りを通して、これがただ神の御心によるものだと信じ受け止めて、二人の上に手を置き出発させたのでした。
■神の時を受け止める
使徒言行録が語っているのは、必要な時は神が示し与えられるということです。主イエスが天に昇られる直前、弟子たちは尋ねました。「主よ、イスラエルのために国を建て直して下さるのは、この時ですか?」。しかし、主イエスは「父が定められた時は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が下るとあなたがたは力を受ける」。その聖霊が下ってきたのは「突然」でした。その「突然」を逃さず、受け止めていくのが、祈りという業です。私たちは自分の生まれる時も死ぬる時も何も知らない者であります。主が備え、導いて下さる「その日、その時」を待ち望む、「その日、その時」を祈りによって逃さず、受け止めていく、それが無から有を造り出し、死から命を生み出される神の恵みの中に生きる私たちの姿勢です。そこに迫害があるかどうか、あるいは今がコロナの時であるかどうか、人はそうしたものをすべての判断の前提にしてしまいそうになるわけですが、しかし、神はその嵐のただ中で生きて働き、人を選び出し、導きゆかれる方であります。
「生きているのは、もはや私ではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。」(ガラテヤ2:20 聖書協会共同訳)。これは「今、わたしをわたし足らしめているものは何であるか」という問題です。自分の思いや努力や欲望、そういう死と共に失われてしまうものによって、かろうじて私は私を保っているのではなく、ただ、この私のためにもご自身を献げてくださったキリストの愛という揺るぎない真実によってこそ、私は私なのだということです。この真実が、パウロを呼び起こし、そしてまた私たちをも踏み出させるのです。
■サウロからパウロへ
パウロとバルナバは、まず地中海に浮かぶキプロス島に遣わされました。二人はユダヤ教の会堂でユダヤ人たちに宣教したわけですが、しかし、今日の箇所で「信仰に入った」と言われているのは、ユダヤ人ではなく、キプロス総督セルギウス・パウルスという異邦人でした。次の14章でも、二人はユダヤ教の会堂で宣教しますが、結果として大勢のギリシャ人が信仰に導かれたのでした。パウロにとって、この最初の宣教旅行は、かつてガチゴチのファリサイ派であったパウロのこれまでの思考を解放し、パウロ自身を新たに変えていくような出来事の連続であったことでしょう。「サウロ」が「パウロ」という名に変わったのは、単に地理的な事でなく、彼自身の変化という意味をも含んでいるでしょう。神の救いとは、はるかに広く深いものであり、聖霊の働きは海も山も隔てとしないのだということを目の当たりにしながら、パウロは旅を続けていったのでした。
■神の恵みに委ねられ
第1回宣教旅行の終わりについて14章26節にこう書かれています。「二人はアンティオキアに向かって船出した。そこは二人が今成し遂げた働きのために神の恵みに委ねられて送り出されたところである」。アンティオキア教会の人々は、バルナバとパウロに手を置いた時、この二人を「神の恵みに委ねた」のです。すなわち、これから彼らの身に起こることは、決して二人の努力によるものではなく、すべて神の恵みの業であるということ、たとえ何が起ころうともすべては恵みの中に置かれているのだということを信じ祈って、神様に託したということです。
主イエスもまた12人の弟子を宣教に派遣されました。その時、持ち物は「杖一本」(マルコ6章)とおっしゃいました。何とも心許ないことのようです。しかし、だからこそそこで、すべては主の業であるということを彼らは知ったのです。自分の工夫や努力や経験がものを言う、そのようなものを誇り・頼みとして生きるのではなく、ただ「キリストがわたしの内に生きておられる」という恵みを鮮やかに見て生きるものとされるのです。わたしたちは、自分が何を持っているかというところに思い悩むのではなく、ただ、キリストによって日々「神の恵みに委ねられた者」として旅しているのだというところにこそ立って歩みたいと願います。そこで古き自分は打ち砕かれ、新たに造り変えられていくのです。
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