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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる
筆者は、きっと主イエスがそのように自分に告げて下さっていることを心に感じ取って、深い感動と慰めを覚えながら、その筆を置いたことでしょう。これは福音書を記した筆者の信仰告白です。
復活のイエスは、その愛する弟子たちとの再会の場所をガリラヤのある山に定め、彼らを呼び集めました。聖書において“山”は、神に向き合う場所。イエスに出会い、ひれ伏した弟子たちはそのことを表わしているでしょう。ところが、ひれ伏す弟子たちをよそに、その方がイエスであることを疑う弟子もいました。復活を疑う弟子に対し、主イエスはなんと言われたでしょう。「なぜ疑うのか」「疑うことは罪だ」「お前もひれ伏せ」などと叱責・強要したのではありません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
主イエスの復活を信じるということ、それは自分が頑張ってようやく理解できるという問題ではありません。そうではなく、ただ、このように告げる主イエスの言葉に捉えられることです。わたしたちが主イエスにむかって「わたしは何があろうとあなたを信じ抜きます。あなたを忘れたりなどしません」と言えるということが信仰なのではありません。それは弟子のペトロが犯した過ちでした。彼は、「たとえ死んでもあなたを知らないなどとは言いません」と主イエスに対して決意を表しましたが、それがどんなに脆いものであるかを自ら証明しました。ここで疑った弟子とは、ペトロなのかもしれません。「疑う」と訳されている言葉には「ためらう」という意味もあります。ためらいながら山を登ってきたのです。あの時、「イエスなど全く知らぬ」と全否定した自分には、今更あわせる顔がないという居たたまれなさがあるのです。その彼に対し、主イエスこそがここで決意をもって宣言したのです。「たとえなにがあろうと、あなたのことを知らないなどわたしは言わない」と。ただキリストの信実だけが、このように宣言することができるのです。そして、この言葉があるから、私たちは自分に与えられている今日を引き受け、明日を待ち望んで生きていくことができるのです。
信仰は、何一つ迷いのないこと、疑いのないこと、すべてを理解できることでは決してないのです。もし、信じるということが、自分で理解し「掴まえる」ことであれば、それはまた自分で捨てもするということでしょう。むしろ、繰り返し迷い、真剣に疑い問い、大いに苦しみ悩み、そこでこそ主イエスのまなざしを、主の言葉を知らされるのです。

■見よ、あらゆる日々に
主イエスは単に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのではなく、実は「見よ」という呼び掛け、指示が原文にはあるのです。また、「いつも」と訳されている言葉も丁寧に訳せば、「あらゆる日々において」ということです。「見よ、わたしは世の終わりまで、あらゆる日々にあなたがたと共にいる」、そういう呼びかけです。
「見よ」、日々の中で繰り返し呼び掛けて下さる声があるのです。この呼び掛けの中で私たちの昨日があり、今日があり、明日があります。迷い、疑い、躊躇い、自分の殻に堅く閉ざしてしまう時も、「あらゆる日々、あらゆる時、見よ、わたしはあなたと共にいる」その言葉に生かされています。私たちにとって札幌北光教会というこの場所が、この時間が、ある意味でガリラヤの山です。ここから降りて始まるそれぞれの生活、そこに生じるあらゆる出来事が、主の伴っていて下さる日々です。主は、ただ共にいて下さるというだけではありません。まさしくわたしたちの「命の主(あるじ)」として、私たちを導き、用いようとされるのです。私たちの人生は、自分が計画し、自分が自分のために喜んだり、嘆いたりして浪費するものではなく、すべて主に生かされ、主が用いられる主のもの、主の業であります。
先週木曜日は昇天日でした。復活の主イエスは天に上げられました。この出来事はわたしたちにとって何を意味しているでしょうか。この世には、力を振るうあらゆる権力・支配・勢力があります、何よりも死という絶対的な力があります。主イエスの昇天は、主イエスがこれらのいかなる力をも高く越えているのだということ、わたしたちを治めるのはこの世の権力や死ではなく、ただ主イエスの愛であるということです。主イエスは天に上げられましたが、私たちから離れ去ったということではありません。「あなたがたと共にいる」、この約束は、聖霊降臨の出来事において果たされました。世の終わりまで、最後の最後まで伴われる主の愛の風によって、わたしたちは押し出され、また導かれて生かされてある日々を歩んでいくのです。

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