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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■イエスとは誰か
イエスの足元にやってきて誰の目も批判も憚らず、泣き崩れた名もなき女性。病苦のゆえか、生活苦か目的は定かではありません。彼女の言葉は一言も記されていません。言葉には出来ない悲痛の極みに置かれていたということではないでしょうか。彼女自身が叫びそのものです。どこにも置き場のない自分という存在をイエスの前にさらけ出し、注ぎ出したのです。そしてイエスも憚らず、彼女をすべて受け止められたのでした。「罪深い女だ」と批難する人々の中で、誰からも肯定されず、もしかすると自分自身でさえも肯定できずに生きて来た彼女を、主イエスだけは見出して下さった。共感者イエス。
「我が神、なぜ私を見捨てられたのか」と十字架上で絶叫したイエスの姿は、ここにいる女性の中に見出されます。イエスは彼女の叫びをご自分のものとされた。言葉なき人々の叫びを絶叫された。それが十字架の出来事です。なぜ、キリスト教会は十字架を見つめ、十字架を語り続けるのでしょうか。そこにイエス・キリストのこの私に対する、まことの共感というものがあるからです。「それはあなたの問題だ」と遠ざけず、恐れて逃げ出さず、また見放さない共感、他の誰一人として負い切れない重荷を、共に負い、絶望と死の果てまで伴う共感です。ここに十字架の光景があるのです。

■絶対的肯定
主イエスは、この家の主人に言いました。「シモン、あなたに言いたいことがある」。「シモン」と名指しで呼びました。同じく主は私の名を呼び、眼差しを向けておられると思うとギクリとする言葉です。
主イエスは彼女に視線を注ぎながらシモンに言いました。「この人を見ないか」。そして、彼女の行動は、多くを赦された者の大いなる愛の業であるのだと言ったのです。涙で足を濡らし、髪で拭い、香油を塗る、周囲の人々はそれをスキャンダラスだ、汚れた罪人だと批難を浴びたけれども、イエスだけはそれを「愛の業」として受け止めて下さったのでした。その場で最も驚いたのは彼女自身ではなかったでしょうか。彼女は自分を肯定するイエスの言葉を聞いたのです。イエスはある意味、その命を懸けて彼女を絶対的に肯定しました。更に彼女に告げました。「あなたの罪は赦された」。この一言はファリサイ派の人々には承服できない言葉でした。なぜなら、罪を赦すことができるのは神お一人だから。つまり、イエスはここで神の愛の権威をもって赦しを告げたのだということです。「あなたを赦す」。赦しとは、何かとんでもない悪事を働いたことを赦してやるというような上から下へ「ほら」と与えられるものではなくて、その人の存在に共感し、完全に受け入れ肯定することです。
ここで負債帳消しというたとえ話がありましたが、これはただ借金が帳消しにされて良かったという話ではありません。そうではなく負債を返すことが出来なかった彼らを、その負債ごと受け入れてくれたということです。神による「罪の赦し」という時、それは私たちから「罪という大きな負債がきれいさっぱり無くなった」ということではなく、私たちを大きな負債のままに受け入れてくださったのだということです。そこに赦しがあるのです。  主イエスは彼女に「安心して行きなさい」とも告げました。この一言がどんなに彼女の生きる拠り所となったことでしょう。思えば、主イエスは、1人1人にこのように呼びかけました。ある人には「元気を出しなさい」と、またある人には「勇気を出しなさい」「恐れるな」と。そして「あなたに平和があるように」と。その言葉はどれも一人一人を肯定し、そして共感を超えた共感者としてイエスがわたしを知って下さっている、主イエスが、神が共に生きていて下さる、その慰めと希望を与え、立ち上がらせていくものでした。一人一人にとって忘れられないそんな主の言葉の記憶が聖書には記されているのです。

■この人を見よ
「この人を見ないか」。主イエスはこの家の主人シモンに言いました。この言葉を見た時に、私は「この人を見よ!(ヨハネ福音書19:5 エッケ・ホモ!)」とピラトが叫んだ場面を思い起こしました。茨の冠を被らされ、紫の衣をまとわされたイエスを指して、ピラトは群衆に、「自分にはこの男にどうしても罪を見出すことはできない」と言い、一方ユダヤ教の祭司長たちは「十字架につけよ」と叫んだ。あの場面です。
「この人を見よ」「イエスを見よ」、そう強く促されています。この方の姿に、あなたの歩んでいく道が示されている。主は歩み出そうとするあなたの共感者としてもいて下さり、あなたを担い、背負い、導いて下さる。そう信じて、主が「見なさい」と視線を注がれる「この人」へと一歩踏み出したい。「この最も小さな者の一人にしたことは、すなわちわたしにしたのである。」(今年度のみ言葉)

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