札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■「もう泣かなくともよい」
主イエスがナインという町に近づくと、ちょうど葬儀の棺が担ぎ出され埋葬にいくところでした。夫に先立たれ、そして今一人息子を失った母親は不条理の闇に覆い尽くされていました。棺を担いだ人たちは、亡くなった若者の親せきや友人でしょうか。棺を担ぐということは律法の規定によれば、「汚れる」ことでしたが、彼らは若者の死を悼み、また母を憐れみ、その汚れることを引き受けました。そして、ここに主イエスが加わります。埋葬の場所へと棺を担ぐためではありません。誰も止めること、抗うことのできない死の現実に呼び掛けるためでした。
主イエスは母親を見て憐れに思い、「もう泣かなくとも良い」と言われました。主イエスは、この母親の自分の存在も共に壊れてしまいそうなほどの絶望的な悲しみをよそに、「悲しむな」「泣くほどのことではない」「もっと強くなりなさい」ということを言っているのでしょうか。もしそうならば、それほど無神経な、酷なことはないと思います。13節の主イエスがこの母を「憐れに思った」という一言が決定的な意味を持ちます。それは、主イエスがこの母親の、自分の存在を引き裂かれるような、えぐられるような悲しみを、ご自身のものとされたということです。その上で告げられた「もう泣かなくともよい」との言葉は、「もう大丈夫だ」「もう恐れることはない」、そのような響きをもって聞こえてきます。
■死を引き受ける
主イエスは、おもむろに棺に近づいて手を触れました。親戚でも友人でもないのに、担いでいる人たちは主イエスの行動に立ち止まりました。決して引き返すことのできない死の現実、誰も止めることのできない死が立ち止まったのです。棺に触れる、死の現実に触れる、それは「汚れ」を引き受けることでした。しかし、ここで主イエスが引き受けたのは、「死」そのものでありました。
札幌北光教会では葬儀の出棺の際、棺に手を置いて祈ります。それは、その時誰よりも主イエスがこの棺に、死の悲しみに手を置いていて下さる、いやこの死をその身に引き受けて下さった方であるということを思うのです。別れの時、悲しみの涙、恐れの涙は流れるけれども、主イエスが引き受けてくださった死、主イエスが贖いとなってくださったからこそ、そこでは「もう大丈夫だ」との慰めがすべてを覆っているのです。
■主イエスの命に与った者の希望
主イエスは言いました。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。主イエスの言葉によって若者はその死の支配から起き上がり、物を言い始め、母のもとに返っていきました。先週は、ペトロがガリラヤ湖で、主イエスの言葉に押し出されて、沖に漕ぎ出し網を降ろしたという箇所でした。夜通し苦労して何も取れなかった失敗の中へ、諦めの中へ、徒労の中へ、「もう一度漕ぎ出し、網を降ろしなさい」との主の言葉によって、ペトロとその仲間たちは、驚くべき光景を目の当たりにしました。大漁の魚が釣り上がる話と、死者が生き返る話と、事情は全く異なる二つの話ですが、いずれも主イエスの死と復活という福音において一つにつながっています。主イエスが共に落胆の舟に乗り込まれたこと、あるいは主イエスが共に失望の棺に触れたこと、そこに希望が告げられています。もはやどうにもならない、何をしても意味がないと思う落胆や失望に中に、主の言葉は働き、命をもたらします。わたしたちは、十字架に死なれ、復活した主イエスの命に与ったものとして、なお失望せず、主の言葉の力に望みを置いて生きていくものとされています。
■神はその民を心にかけてくださった。
悲しみのどん底に共に立ち、近寄り難いその悲しみに触れ、死の現実に向けて言葉を告げ、死を揺さぶり、目覚めさせる。主なる神の愛が働くその現実を目撃した人々は、皆恐れを抱き、そして神を賛美しました。「神はその民を心にかけてくださった」(16節)。「神はその民を心にかけて下さっているのだ」、その事実を、この母親だけが知ったのではなく、その場にいた皆が知ったのでした。それは、この物語が母親と息子だけの物語ではないということです。「所詮、わたしには関係がない」「この母親は主イエスに心にかけてもらって良かったが、わたしは忘れられている」「ペトロは大漁になったけれども、わたしはなお欠しい」。そんな不平と諦めをもたらすような物語ではありません。これは「民全体に与えられる大きな喜び」(ルカ2:10)です。「神はその民を心にかけてくださった」この賛美の喜びから仲間外れにされ、こぼれ落ちるものは誰一人いないのです。主はこの私をも見つけ出してくださり、人生の舟にもう既に乗り込み、そして死の棺に触れられる、この方の命に与り、結ばれているのです。いつも主がこのわたしを心にかけていてくださる。羊飼いとして伴っていてくださる。この希望を知る時にわたしたちもまた、新しい命に起き上がって歩んでいくことができるのです。
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