札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■何度目の「山登り」?
山上の説教、何度も聞いてきた箇所かもしれません。今日も主イエスに導かれてこの山を登ります。イエスは群衆を見て山に登りました。神はモーセをシナイ山へと呼び出し律法を授与した場面が彷彿とされます。律法、それはイスラエルの民が神の民として生きていくための決定的に重要な道標としての教えです。郡衆もまた、神と向き合い、イエスの口を通して自分たちにとって決定的な神の言葉を聞くのです。
■不幸中の幸いではなく
しばしば「不幸中の幸い」と申します。「不幸は不幸だけれど、最悪の事態には至らなかった」「一歩間違っていたら、もっと悪かった」というせめてもの救いのことです。イエスは繰り返し「幸い」を告げました。それは人生の不幸・苦しみに翻弄されてきた人々に、せめてもの気休めを他人事のように告げているのでしょうか。そうではありません。主イエスは、彼らが自分の置かれてきたその現実から、真の幸いを見つめて新たに生きるように促しておられます。彼らが、自分という存在を、神の子として新たに位置づけて、人生を神のまなざしから受け取っていくためにイエスは語られるのです。
「心の貧しい人」というのは、愛情・人情にとぼしい人という意味ではなく、己の内に豊かさの源泉を持たず、神の恵みなしに自分では生きることができない人ということです。自分自身の内に頼み・誇りとするものを何も持たず、それゆえに神に空っぽの自分を明け渡し、ただ神の恵みによってのみ生きる人のことです。「柔和な人」というのもそれと似ています。柔和であるとは、「穏やかで優しい」というニュアンスではなくて、自力で、力づくで生きることをしないということです。自分の可能性、自分の力を振るって生きることをしない(できない)人です。だからこそ、ただ神のみを頼みとして、神の前に謙って自らを明け渡す人です。そこでこそ人は「天の国」(=神の支配)に生きる幸いを得るのです。
■「悲しむ人々は幸いである。その人は 慰められる」
悲しみのない人生はありません。人は、自分自身のことだけでなく、他者のことで悲しみ、この世界のことで痛み悲しみます。その痛み、悲しみは、実にその人が他者との関係、この世界のとの関係の中でこそ生きていることを証ししているものでしょう。私たちが、自分のために、他者のために、この世界のために深い悲しみを抱く時、そこに神ご自身の悲しみが表わされています。神こそがそのように痛み、悲しみ、愛をもって深く関わっていて下さるのです。そのことを知る時、人はただ悲しみを悲しみ続けるのではなく、何にも代えがたい幸いに覆われていると言えるのです。
「君侯に拠り頼んではならない。人間には救う力はない。霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる。いかに幸いなことか。ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人。天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた神を」。(詩編146 交読詩編)
人間は、本来無力な者であり、この世のいかなる権力も頼みとはならないのです。自分が徹底的に乏しく、無力な者であることを知り、ただこの私をご自身の似姿として、この世界にあるべき者として創り、喜びも悲しみもご自身のものとして共にされる神によって生きる時、そこに「いかに幸いなことか」との賛美は生まれてくるのです。
■「義」を求めて
「義に飢え渇く人々は幸い」「平和を実現する人々は幸い」、「義のために迫害される人々は幸い」と続きます。主イエスは、この後も続く山上の説教の中で「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(5:20)、「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」(6:33)と言われました。「義」とはなんでしょう。律法学者やファリサイ派にとってそれは、神がモーセにシナイ山で与えられた律法を絶対として、その戒めを完全に守って生きることでした。しかし、それ故に彼らは正し過ぎたのです。その正しさゆえに、彼らは律法を守れない人々を裁かずにはおれませんでした。主イエスにとって「義」とは、彼ら以上に、律法を徹底して遵守することではありませんでした。主イエスは「心を尽くして…あなたの神である主を愛し、隣人を自分のように愛すること」(22章34節以下)、この一句に律法(聖書)全体は全うされているということを教えたのです。神の求めておられる「義」はそこなのです。ただあなたを造り、あなたを愛する神によってこそ生きること、そして、あなたと同じく神に愛されてある隣人を大切にして生きること、そうして、互いを神によって「あるべくしてある者」として認め合うことです。いつどこにおいても、何よりもまずこの義を追い求め、この義のために苦しみも引き受けていくこと、そこに平和は造り出されていく、始まっていくのであり、そこにこそあなたの幸いがあるというのです。
主イエスは、その生涯を通し、そして十字架に自らを捧げることを通して、この「義」を身をもって示されました。そしてわたしたちが、この義を生きるものとなるために、主は復活され、聖霊によって、私たちを何度もこの山へと導き、そこから共に歩みを始めて下さるのです。
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