札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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◆「丸太」なき世界
「目の中の丸太を取り除け」と主イエスは言われました(7月20日説教)「丸太」とは何か、という解釈は色々あり得ると思いますが、いずれにせよ、それが目の中一杯にあることによって、他者の存在が映らなくなる、他者を自分自身の中に受け止め、自分に重ね合わせてみる「余地」が無くなるという問題を考えさせられます。あらゆる「暴力」の根っこには、この余地の無さが関係していることでしょう。平和を作り出していく作業は、自分の目の中の丸太を少しずつ取り除いていき、そして神の眼差しから、主イエスの眼差しから、自らと他者を見つめ受け止めていく、そして、他者の存在とその可能性を妨げるのではなく、他者と共に喜び、悩み、涙するということであるでしょう。天の国とは、きっとこの丸太なき世界です。自分の中に他者を、他者の中に自分自身を見つめ、そして両者に神の眼差しを見つめて生きる世界です。この天の国は遠のいているかのように見えて、むしろ近づいている、私たちの間に始まっているのであり、「あなたはここを生きよ」と主イエスは告げられるのです。
◆「あなたと同じように支払ってやりたい」(14節)
ぶどう園と労働者のたとえ。この話の中心的問題は、賃金支払いの順序ではなく、その中身です(最初に雇われた人たちは、自分たちが後回しにされたことに怒ったのではない)。最初から働いた者たちは、最後にたった1時間しか働かなった者たちと、同じ賃金だったことに猛烈な不満を抱いたのでした。すなわち、最後の者たちだけが重んじられて、最初の者である自分たちは軽んじられたと捉えたわけです。
しかし、ぶどう園の主人は、最初の者たちに「友よ」と呼びかけ、わたしは決してあなたたちを軽んじているのではなく、この最後の者たちも、あなたたちと同じくらい重い存在なのだということを伝えました。主人は、この最初の者たちを非常に重んじているのだということを見落としてはならないでしょう。私たちもまた、自分が神からどんなに愛され重んじられているか、その事実への驚きや喜びや感謝を忘れ、軽んじて、不平で心を満たしてはいなかったか、自分こそ神の愛を不当にも軽んじてしまってはいなかったか、と気づかされます。この気づきもまた、「自分の目の中の丸太を取り除く」ことです。自分がどれほど愛され重んじられているか、神の愛の重さを自らの内に確かめることによって、他者という存在の重さが見えてくる、分かってきます。
この話において語られている「1デナリオン」は、労働の対価・報酬ではなく、神の愛としての1デナリオンです。これは、空虚な理想ではなく、すべての人に等しくそして極めて重たい事実です。
◆先の者よ、後になれ
皆に等しく絶対的に重たい事実として与えられている神の愛という1デナリオンを思う時、「後の者が先になり、先の者が後になる」という言葉は、単にやがて順序は覆る、秩序は逆転するのだということではなく、「あなたは仕えるものとなれ」ということではないでしょうか。この世において、絶対に逆転しない神の眼差しに立ち返って他者を見つめ、その人の弱さや痛みや悩みを自己責任としてその人に押し付けるのではなく、あなたはそれを共に担って仕えよ、と。世の痛みや呻きや悩みを、また、そこに潜む人間の罪の力を、主イエスが十字架で担われたように、「あなたも自分の負うべき十字架を負いなさい」。そんな呼びかけに聞こえないでしょうか。
◆教会は「ぶどう園」か「広場」か
皆が1デナリオンを受け取りました。2節をよく読めば、「1日につき1デナリオン」という約束があります。すると、ぶどう園での労働、これは「一日限り」の話しではなく、実は、こその翌日、またその翌日にも続いている話なのだと言えます。そして、それは福音書をも飛び出して、今日このわたしたちに続いています。今日、私たちも、また広場で主に見いだされ、呼びかけられています。約束の1デナリオンである主の愛を日毎に新たに受けて、天の国のために働く者とされています。教会は、そんな主の呼びかけを受ける「広場」なのです。私たちはこの広場で、主に呼ばわれ、ぶどう園である世へと出かけていくのです。
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