札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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イエスに癒されて目が見えるようになった男の人の中にファリサイ派の人たちが見ていたものは、「罪」でした。
当時、障害があるということは、「罪」の結果であるとされていました。34節に「お前は全く罪の中に生まれたのに、」とあるように、生まれつき目が見えない、ということは、すでに罪の中に生まれた、生まれたときから罪人だと決めつけられ、そういうレッテルを貼られてきたわけです。
見えるようになったことによって、その罪とされてきたことや、人々から貼られてきたレッテルから解放されたわけですけれども、ファリサイ派の人たちには、その喜びや、神さまの救いというものを見ることができていないのです。その人も自分と同じように神に愛された一人の人としてこの世に存在しているという事実、その人の命が見えていないのです。そういう意味では、ファリサイ派の人たちも見えない者であったのです。
目の見えなかった人が癒された日は安息日でした。厳格に律法を守り、守らない人たちを攻撃するパリサイ人にとっては、一人の人がいやされたことよりも、その日が安息日であることが問題でした。そのことを持ち出して、イエスを非難します。もともと安息日は、神様が人のために作られた命を守る規定でした。それがいつの間にか、安息日に働いてはいけない、病気をいやしてもいけない、という規則になり、人々を苦しめる日になってしまいました。パリサイ人は戒律を重んじるばかりに、人々を愛し、憐れもうとされる神を見失ってしまった、つまり、神が見えると思っていたのに、見えなくなってしまっていたのです。
目の見えなかった人が会堂から追放されたことを聞いて、イエスは彼を捜しだして彼に出会うと「あなたは人の子を信じるか」と言われました。この目の見えない人は、最初はイエスが誰か知りませんでした。しかし、ファリサイ人との対話を通して彼はイエスが誰であるか、少しずつ見えるようになってきたのではないでしょうか。最後には主イエスとの出会いを通して、「主よ、あなたこそ救い主です」と告白するに至りました。この人は一度は肉体の目を開けてもらい、二度目に心の目を開けてもらったのではないでしょうか。
主イエスは「私がこの世に来たのは、裁くためである。」と言われます。「裁く」という言葉を聞くと、私たちは何か「罰せられる」というように受け取ることが多いのではないでしょうか。しかしここで主イエスが言われる「裁くために来る」というのは、私たちを罪あるものとして断罪する裁きではなく、「あなたは無条件に神から愛されている者である。主イエスの十字架の死と復活によってあなたの罪は赦されているのだ」という救いの宣言をするための裁きであり、そのために主イエスがこの世に来てくださったのだ、ということなのです。
目が見えず、闇の中にいたこの人は、主イエスという光によって、神様の救いを知り、神さまの救いを見ることができ、見える者とされました。
しかし、見えると言い張るファリサイ派の人々は、自分にこそ正しく、律法をまもることに必死になるあまり、本当の神様の救いを見ることができません。ファリサイ派の人々がイエスの為されたしるしを見ても、安息日にこだわるあまり、それを神のわざと認めることの出来なかったように、です。だからイエスは言われます「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(9:41)。と。
目の見えなかった人は、あなたの罪は赦されていると宣言されて、主イエスは、私の救い主であると見える者とされました。本当に見るべきものを見出だし、自分の人生の基盤を罪というものではなく、神様に据える新しい生き方へと変えられていきました。彼の目が見えるようになるという奇跡よりも、彼がこのことを知り、そして、主を信じる者へと、変えられていくことこそが、奇跡と呼べる神の業でした。私たちも神様の業をしっかりと見える者とされたいと思います。あなたに罪を定めないという、救いの宣言を待ち望む一人ひとりでありたいと思います。
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