札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >心の貧しい人々は幸いである


■祝福の宣言
「群衆はその教えに非常に驚いた」(7章28節)。「山上の説教」を聴いていた群衆の多くは広範囲から集い、主イエスによって癒された人々でした。彼らは、癒されたその体で、山を登り、主の語られる言葉と共に、新しい歩みを始めていこうとしているのです。新たな歩みへと送り出す第一声として主は言われました。「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」
幸いなどどこにもない、そんな苦悩や不安に飲み込まれてきたこの人々に対し、主イエスは、硬直した古い革袋を破るように、祝福を注ぐのです。
葬儀において、教会や牧師によっては遺族等に配慮して「祝祷」という字を避け、「終祷」と置き換えることがありますが、わたしは「祝祷」にこだわります。それは不謹慎でしょうか。いいえ、死をもってしても奪い取ることのできない、虚しくすることのできない主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあるということ、それ以上の幸い、祝福はないのだということを、この時だからこそ宣言するのです。あるいはそれは死に対する宣言であると言っても良いかもしれません。「死よ、お前の勝利はどこにある。死よ、お前のとげはどこにある」(Tコリント15:55)と。
「悲しむ人々は幸いである」、そう祝福を告げる主がこの悲しみの只中で生きておられるという事実に出会っていく宣言なのです。

■頼りなく、望みなく、心細く
「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」。
ひがみ、妬み、苛立ち、横柄・・・そうしたものを「心の貧しさ」と言うことがありますが、主イエスの言われる「心の貧しさ」とは根本的に違います。山浦玄嗣さんが訳された「ケセン語訳聖書」によれば、「頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸せだ。神さまの懐に抱がさんのァ、その人たちだ」です。頼りなく、望みなく、心細い人。自分自身を頼りとできるものを何ももたずうな垂れている、そんな状態の人を、心の貧しい人だというのです。その人こそ神様の懐に抱かれている真の幸いを生きることができるのです。
「柔和な人々」は、温厚・穏やかというよりも、「力づくで生きることをしない(できない)人」です。自分の努力と可能性を頼りに、力づくで生きようとする硬直した革袋ではなく、「柔和」を主イエスは求めるのです。柔らかく新しい革袋を。
東日本大震災から8年が経過しました。人間が土から造られたという創世記の言葉は、人間がそれ自身では無力であるということでしょう。しかし力と繁栄を求め、己を過信した結果、原発事故という破綻が生じました。なおも自然災害の力がもたらした悲しみ、そして人間自らがもたらしてしまった痛み、破れは至るところにあり、被造物はこの地で呻いています。「地を受け継ぐ」のは「柔和な人」です。再び力を選び取り、力づくで幸いという名の幻想を獲得することではないのです。
癒されて山を登った群衆は、「ああこれで人を頼らず、自分の力で生きていける!」ということに幸いを見たでしょうか。彼らが「幸いだ」「力だ」と思ったのは、「主我を愛す、ゆえに我あり」というただ一つの事実ではなかったでしょうか。

■無力の中に「我が神」を知る
力づくで生きることができない行き詰まり、自分の無力さを突きつけられる現実があります。山上の説教を語られた主イエスご自身がその心の貧しさを十字架の上で味わいました。
「我が神、我が神、なぜわたしを見捨てられたのですか」。この叫びのどこに幸いが、祝福があると言えるでしょう。全く絶望しかないような叫びの中で、しかし、主は「我が神、我が神」と口にされました。空虚な独り言ではなく神に向けられていました。見捨てられたのではないかという恐れ、貧しさの中で、しかし確かにこの神こそが希望でいてくださるのだということを死からの復活は証ししています。受難節、わたしたちは、自分の「心の貧しさ」の中でこそ我が神に出会うことへと導かれたいと願います。
「心の貧しい人々は幸いである、悲しむ人々は幸いである、柔和な人々は幸いである。」
頼りなく、望みなく、心細く、無力な人間の只中に身を置き、共に生きようと決断された方に従って、今、礼拝という山から降りていきましょう。

前のページに戻る

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について