札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■テモテ
「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています」。(19節)
テモテは、パウロの同労者であり、パウロが厚い信頼を寄せていた青年です。獄中のパウロが、フィリピ教会にテモテを遣わしたいと願い理由の一つは、この手紙を届けてもらうことです。パウロにとって一心同体ともいえるテモテ、またフィリピ教会の人々もよく知っているテモテが、手紙を届けて読み聞かせることは、パウロ自身がそこに臨在するに等しいことであったでしょう。また手紙を届けるだけでなく、暫く滞在して信徒たちのケアに当たらせることもできると考えたことでしょう。また、パウロは「あなたがたの様子を知って力づけられたい」という願いのためにテモテを派遣しようとしています。フィリピの信徒たちが今どのようにしているか、今この時もキリストの福音に根差して生き、互いに励まし、思いを一つにし、世にあって星のように輝いている様子を知ることができたならば、それが獄中にいるパウロにとっての力なのです。このように、パウロとフィリピの信徒たちとをつなぐためにテモテという一人のキリストの働きが欠かせなかったのです。
■最善をなしてくださる主
「テモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています」。わざわざ「主イエスによって」と言っています。もう少し原語に忠実に表現すれば、「主イエスに在って」となるでしょう。英語なら in Jesus、in christ です。パウロは獄中で失意や恐怖にすっかり支配され心も体も身動き一つとれずにいたのではありません。たとえ、生きるにせよ死ぬるにせよ、自分は「主イエスにある」「主イエスの中にある」、ただこの一つの事実に支えられて彼の心は自由なのです。このような状況でも煩わされず、「間もなくテモテをそちらに遣わす」とか、「わたし自身もまもなくそちらに行けるものと主によって確信している」(24節)と、ほとんど冗談のようなことを言ってのけるのです。パウロにとって、それが本当に実現するか否かは決定的な問題ではありません。「こうならないとだめだ、もう終わりだ」と自分の願いや計画に囚われているのではなく、いずれにせよ、主はこの私と共にあり、主はすべてのことに最善をなしてくださる、そんな信頼の中で恐れず希望を抱いているのです。主の御心ならばそのようにされるし、そうでなくも主の御心によって最善がなされる。わたしは「主にある」、その揺るがぬ土台に立つパウロなのです。
■エパフロディト
この人の名は、この手紙にしか出てきません。「彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」(25節)。ここから読み取れるのは、エパフロディトとは、監禁中のパウロを直接支えるためフィリピ教会から派遣された人物であるということです。彼は、フィリピ教会からの荷物をパウロに届け(4:18)、そのままパウロのそばで骨身を惜しまず仕えたのです。けれども、ある時彼は健康を損ね、瀕死の病にかかったようです。せっかく皆の期待を背負って派遣されたのに、自分の務めを充分果たせなくなってしまった。しかも、そのことが、どういうわけか、フィリピ教会の知るところとなってしまった。それで彼はフィリピの仲間たちに大変申し訳ないことだと心苦しく思っているというのです。パウロは、そのように心も体も痛めているエパフロディトを大急ぎでフィリピに送り返すので、決して落胆や批判をせず、「主に結ばれている者として大いに歓迎してください」(29節)と言うのです。ここで「主に結ばれている者として」と訳されている言葉も、「主に在って」です。
■主に在って
今日の箇所では、「主にあって希望する」「主にあって確信する」「主にあって歓迎する」と3回(この手紙全体では8回も)、「主にあって」という語を用いています。パウロは獄中にいて、フィリピの信徒たちとは互いに物理的に遠く離れています。しかし、信仰においては互いにイエス・キリストにおいて共にあるのです。あなたもわたしも、あるいは生きるにせよ死ぬるにせよ、順風においても逆風においても、互いに主イエス・キリストこの方に共に在る、この方において互いは一つであり不可分なのです。ただこの事実のゆえに、エパフロディトのことを迎え入れることを願い求めているのです。
パウロに代わって手紙を届けるテモテ、フィリピ教会の人々を代表してパウロを支えたエパフロディト。この二人は、パウロとフィリピ教会とが主イエスにあって一つであることの証しとなる働きを担いました。またこの二人の働きは、虚栄心や利己心からではなく、自分を無にして、僕の身分になられ、十字架の死に至るまで謙って世に仕えられたキリストが、今日も彼らを用いて生きて働いておられることの証しとなりました。
札幌北光教会の歴史にも、そのように互いに主に在って用いられた信徒たちがいました。そして、その歴史の先頭にいる私たちを用いて主は働かれるのだということを証ししていくものでありたいと願います。
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