札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
>札幌北光教会/トップ >牧師紹介・説教 >神の愛は使ってなんぼ
「美しい門」と呼ばれる宮の門の前でイエス・キリストの弟子、ペトロとヨハネが足の不自由な人を癒した出来事です。ペンテコステの後、かつての弟子たちは使徒として、力強く主イエスの福音を宣べ伝え、力あるわざを御名によって行っていました。なかでも癒しの奇跡を行う力は彼らが主イエスの使命を受け継いでいることのしるしでした。やがて彼らは迫害に逢い、逮捕されますが、この出来事はそのきっかけとなったものでした
君主ヘロデ王が再建・拡張した神殿には内庭と外庭を隔てる門がありましたが、その一つがこの「美しい門」でした。この門が境目とするのは「外界」と「聖域」です。聖域ではない外庭は(いわゆる異邦人なども)出入り自由でしたが、内庭との隔たりは絶大でした。その柵には「異邦人はこれより入るべからず」と記され、違反者は死刑とされたほどです。
ここに登場する生まれながら足の不自由な人は、毎日この門の「外側」に背負われてこられ(「置いてもらって」と記されている通り、まるで物でも扱うかのように)、日の暮れるまで門を通る人に物乞いをして施しを受ける毎日を送っていたのでした。
彼がいつものようにそこにいると、祈りのためにやって来たペトロとヨハネに施しを乞います。彼にとって二人は毎日自分の前を通り過ぎる数多くの人たちとは異様と言ってもいいほどに異質な存在でした。自分を「じっと見る」からです。物乞いをしていた彼は多くの人たちをぼんやりと見、彼の前を通り過ぎる人たちも彼を一瞥、あるいは見過ごしていたでしょうが、ペトロとヨハネは違いました。「じっと見て」さらに「わたしたちを見なさい」と言うのです。彼も「見つめ」返します。この視線の対峙が双方の出会いを決定づけます。「わたしたちを見なさい」とは、単に「わたしたちの方を向いて見なさい」ではなく、「わたしたちの姿を見なさい」であり、「わたしたちの生き方を見なさい」であり、さらに深くは「わたしたちの内に生きて働くキリストを見なさい」とまでの意味が込められています。実はこのことこそが重要です。わたしたち信仰者にとっては、わたしたちが誰かに見られるということは、わたしたちを生かすキリストを見られるということに直結するからです。普通に考えればわたしたちにとって自分を見なさいというのは何となくおこがましいことのように思えますが、そうでなければ次の段階に進むことができません。なぜならわたしたちは主イエスの福音を携えているからです。その段階とは、他者の困窮・欠乏・苦しみ・悲しみのなかに「入り込んでいく」ことです。そのときわたしたちも時を越えてペトロとヨハネに連なり、同じ言葉を発するのです。「イエス・キリストの名により立ち上がり、歩きなさい」・・・・・・・・
ペトロとヨハネは自らの無力さ貧しさを、他ならぬ主イエスによって思い知らされました。同時にそのことを内に働く主イエスの福音と「共存」させることが神の真実であることを知ったのです。まさに「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」です。ここにおいて聖書はわたしたちに問い掛けます。「金や銀はない」に留まり、「持っているものをあげよう」としないわたしたちに、なぜしないのかと。
わたしたちは持っているものをあげようとしていない、だとすればさらに次の段階に進むこともできません。それこそが主イエスがわたしたちに教えてくれたことであり、わたしたちに託したことであり、わたしたちに期待することです。すなわち「右手を取って立ち上がらせた」という具体的な行動です。主イエスの教えをわたしたちは携えています。身に着けています。しかし、ただそれだけではないでしょうか。生まれつき足が不自由であった人の右手を取って立ち上がらせるという行為は、彼がキリストの名によって歩き始めるという事実として、目に見える形で実現しますが、その真の意味は、歩けなかった人が歩けるようになったという、目に見える奇跡ではなく、今まで彼を抑えつけ、虜にし、自由を奪い、もののように扱ってきたさまざまなものから彼が解き放たれたことの象徴です。
わたしたちは主イエスの教えと出会い、弱さ・むなしさを背負ったままで「自分の足で立って歩み始めた」ではありませんか。それこそが肉体的な癒し以上の主イエスの癒しに他なりません。真の癒しは神への応答に直結します。もしわたしたちが他者に「わたしたちを見なさい」と言うに留まっているとしたら、主イエスの教えは実現しません。使ったことにはならないからです。それは神への応答の怠りです。主イエスの期待の裏切りです。神の愛は「使ってなんぼのもの」だからです。
⇒ 前のページに戻る