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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■神の民として生きる契約
モーセは、シナイ山で神から十戒を与えられました。それは神がイスラエルの民との間に立てた「契約」でした。この契約は、弱く小さな群れであったイスラエルの民を神が選び、守り導くとの約束であり、また彼らが「神の民」として生きていくための道筋でした。ところが、民の歴史は、この契約に従って、神の命じられた道を歩むものではなく、度重なる神への背信を辿りました。神が彼らを選び、祝福の道として与えて下さった契約を反故した結果、イスラエルは亡国に至ったのでした。しかし、神はご自身が選ばれた民を見捨てず、預言者の口を通して慰めと希望とを語りました。預言者エレミヤは、神の言葉をこのように預かりました。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。…わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ書31章31節以下)と。その「新しい契約」こそが、イエス・キリストでありました。この方が十字架において民の罪を担われたことによって、罪の赦しは成し遂げられ、民は神と和解し、新たに神の民として生きるものとされたのです。
イエス・キリストは、捕えられる夜、パンを裂いて弟子たちに配り、またぶどうの杯をとって言われました。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約・・・・・である。飲むたびにわたしの記念としてこのように行いなさい」。キリストの十字架により、罪の赦しは告げられ、神の民としての歩みが与えられました。この恵みの契約をいつまでも忘れないために、聖餐は制定されたのです。先週も聖餐式が執り行われました。パンと杯を分かち合うことによって、わたしたちは、キリストによってまことに神の民とされたことを喜び祝い、神の恵みに応えてキリストを内に宿す新しい人として生きていくことを志すのです。
主イエスは「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と告げられます。赦された神の民としてのあなたが歩いていく道は、「互いに愛し合う」という道、これしかないはずだというのです。そして、主は羊飼いとして、私たちを何度でもこの道に連れ戻し、わたしに従いなさいと諦めずに導きながら終わりまで伴って下さるのです。

■留まる
主イエスは、「わたしが(は)羊飼いである」と、羊飼いと羊の関係において語られましたが、ここでは「ぶどうの木とその枝」の関係において語られます。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(4節)
木と枝というイメージから「つながる」という翻訳が採用されていますけれども、直訳するとここは、「わたしに留まれ・・・、わたしもあなたがたに留まっている・・・・・・です。直訳の方がズシンときます。「つながり」というと、強い風が吹けばポキンと折れて離れてしまいそうですが、主イエスはここで「わたしはあなたに留まっている・・・・・・」と言われたのです。
わたしたち自身は、いくらイエス様から「しっかりつかまっておれ」と命じられても、自分の熱心さや責任感だけで、つながり続けることはできないでしょう。ただ主イエスが留まっていて下さること、これこそ揺るぎない決意をもって与えられた「約束」、一方的に結んでくださった「契約」です。このことによってのみ、わたしたちは今日、神の民とされているのです。
復活した主イエスが、家に潜んでいた弟子たちの「ど真ん中」に現れ、「あなたがたに平和」と告げられたこと、それはまさしく「わたしはあなたがたに留まっている」ということの証しです。洗礼を受けるということは、この主イエスの決意にとらえられるということです。

■神の民として、愛しあう道への出エジプト
主イエスは、わたしたちの真ん中に留まって言われます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」「これがわたしの掟である」と。「掟」を「定め」と言い換えてみましょう。わたしたちの内には、揺るぎないものとして「定められている」ものがあるのです。それは「わたしがあなたがたを愛した」という事実です。この「定め」は、律法の書かれた文字のように、わたしたちを外側から束縛し、不自由にするものではなく、むしろ、わたしたちを内側から生かし、神の民の歩みへと解き放っていくのです。わたしたちは、今日ここからまた、主の愛を内に宿す者として、「互いに愛しあう」という道へ「出エジプト」していく、解放された神の民として出かけて行くのです。
今日の聖書箇所の直前には、「さぁ、立て、ここから出かけよう」と記されています。主の呼び掛ける声を生活の中に聞き分け、従っていきましょう。きっと何度も道を外れてしまうでしょう。イスラエルの民が出エジプトの旅において、幾度もモーセと神に不満をもらしたように、わたしたちは愛することに疲れ、迷い、立ち止まろうとするでしょう。しかし、主はこのような羊を見捨てず、約束を破棄せず、羊飼いとして声をかけ、その先へと導かれます。

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