札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教  >必要なことはただ一つ


■「マルタとマリア」
この話の直前には、善いサマリア人の話が記されています。どちらもルカによる福音書にしか書かれていない内容です。善いサマリア人は、盗賊に襲われ瀕死となっていた人を「哀れに思い、傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をし、自分のロバにのせ、宿屋に連れて行って介抱し、翌日デナリオン銀貨2枚を宿屋の主人に渡して、引き続き介抱するよう依頼し、費用がもっと必要ならば帰りがけに支払うと言い残して行きました。こうして自分の大切な時と力を献げ、心を尽くし、力を尽くして奉仕し、自ら隣人となっていったのでした。そして主イエスは、「行ってあなたも同じようにしなさい」と話を聞いていた律法学者に告げました。
この話にマルタとマリアの話が続いている、ここにはルカの意図があると思うのです。マルタはイエスをもてなすために一所懸命働きました。当初はとても張り切り、喜びをもって。
ところが、姉妹のマリアはこの物語の最初から主イエスの足元、一番いい所に座って話に聞き入っていたのでした。マルタは、だんだんと「自分だけがさせられている」という感覚になったのでしょう。マリアと、この状況を放置しているイエスに苛立ちを覚えました。「主よ、私の姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝うようにおっしゃって下さい」(40節)。マルタの言い分はもっともです。

■どちらも不可欠で不可分
これに対し、主イエスは何と言われたでしょうか。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(42節)。物語は、イエスのこの一言に集中し、そして突如終るのです。
主イエスは、善いサマリア人の話をした後に、「行ってあなたも同じようにしなさい」、「行って行いなさい」と教えられましたが、今度はそれとは対照的に「座って、聴きなさい」と教えているようです。マルタは、善いサマリア人のように、自分の時と力を精一杯献げて働きましたが、むしろここでは「座って聴くこと」の方に重きが置かれているようです。確かに、座って静まって聞く、これもまた自分の時と力を献げる大切な奉仕といえるでしょう。礼拝はそのように主の前に近づいて、聴くということを通して私たちを主に献げる奉仕といえます。
けれど、マルタとマリアのどちらが正しいか、どちらの方がよりイエスを愛し仕えたかという読み方をするのは正しくないでしょう。「行って、行いなさい」という隣人への愛の教えがあって、それと同じく重要なこととして、座して主の言葉を聴くという教えがあるのです。つまり、「心を尽くして、力を尽くして、神である主を愛し、また隣人を自分のように愛しなさい」、その両方がどちらも欠かせない不可分のものとして、二つの物語を通じて教えられているという構図なのです。

■「マルタ、マルタ」
主イエスは、彼女の働きを感謝し尊びつつも、しかし彼女が今、不満や苛立ちで心が一杯になって、マリアを咎めているあるいは主イエスをも咎めていることについて問いかけています。マルタは、自分の給仕は必要な働きであって、決して間違っていないと思っていたでしょう。その通りです。しかし、自分は間違っていないと思うからこそ、そこで相手を咎め裁き始めているということに気づけていません。そんなマルタに対して、主イエスは、マリアの態度は本当に咎められるべきものだろうか、考えてみてほしいと問いかけているのです。
足元に座って話を聞くというのは、ユダヤ社会において師から律法を学ぶ時の姿勢でした。女性であるマリアがその姿勢をとっていることは、当時においては驚くべき光景です。そこにはマリアの切実さが感じられます。マリアにとって主の言葉に深く耳を傾けることこそ、「ただ一つ必要なこと」であり、主イエスもその行動を受け入れています。しかし、主イエスは、マリアがこうして座して聴くという選択ができたのは、マルタという働き手がいてくれたからこそ、ということもご存じだったでしょう。主イエスは、ここでマルタのこともマリアのことも受け入れているのです。

■あなたの番、わたしの番
この話の続きがあるとするならば、それは、私たちが引き継でいくものだと思います。だとすれば、今度はマルタの働きをマリアが担う番です。「神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」これは、たった一人で全部できることではなく、わたしたちが互いの必要を理解しあい、補いあってこそ担っていくことができるものなのだということを教えられているのではないでしょうか。
そして、なにより、この時、本当の意味で奉仕をしておられるのは主イエス御自身であるということを忘れてはなりません。私たちが教会で礼拝をする時、食事を共にする時、他者のための働きに遣わされる時、そこで主が私たちの真ん中にいて下さり、その命をもって一人ひとりに仕えて下さり、受け入れて下さっているということ、この主の奉仕を一人一人が心から喜び、その喜びを分かち合って応答するものでありたい。

前のページに戻る

個人情報保護方針について