札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■まことの人間としての姿
本来、誰も知り得ないイエスの秘められた祈りです。これまで誰にも見せたことがない十字架の死を前にしてのひどい恐れ、悲しみ悶える姿。それはイエスがまことに一人の人間であったのだということの証しです。「できることなら、この杯を(この苦しみを)わたしからこの過ぎさらせて下さい」。主イエスは、なりふり構わず祈ります。「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」との祈りを教えられた方が、「御心」に激しく苦しんだというのは実に意外な姿です。果たしてこれは、できれば見たくないような見苦しい姿でしょうか?むしろ福音書は「ここに慰めがある、希望があるではないか」と言っているのではないでしょうか。
■イエスの祈りが聴こえてくる
そもそも、イエスがなぜ憎まれ裁かれ十字架で殺されなければならなかったか。それは汚れた者、罪人と呼ばれ、苦しみ痛みを強いられていた人々のもとに行って彼らに神の愛の現実を示し、神の子として祝福を告げたからです。主イエスにとって、たとえ律法を破る事になろうとも、一人ひとりが神に愛された自分自身を知るということの方が絶対的に重要でした。しかし、それゆえに主イエスは宗教指導者たちから危険視され、憎まれ、ついには罪人として裁かれました。そう考えると、ここで主イエスが死を前にして苦しみ悶えられたというのは、ただ死に恐怖しているというのではなく、汚れた者、罪人と呼ばれてきた人々がそれまで強いられてきた苦しみ痛みを、同じ一人の人間としてご自身の身に引き受けて味わっておられる姿だと言えるのではないでしょうか。そして、それは同時に、その人々を蔑み、「お前は罪人だ」と裁き、苦しみを強いてきた「正しい人々」の罪をも、その身に引き受けてくださった出来事です。主イエスは軽々とこの世の苦しみ、罪の現実を担いだのではありません。「死ぬばかりに悲しい」「この杯を過ぎ去らせてください」と祈られたのでした。
これは2000年前の過去の話ではありません。主イエスはこのようにして、あなたのことを知りあなたのことを担って下さっている、皆さんの現実です。苦悶して祈るイエスの姿は、主イエスという方が、わたしたちが人生で抱く苦しみ悲しみを知らない方ではないということです。あなたの味わってきた誰にも理解できないような痛み、孤独を、嘆きを主イエスは味わい、そしてまた、あなたの罪を主イエスが苦しまれ、引き受けて下さった。そうして、あなたは今日、神の子としての祝福を生かされているのです。そう信じる時、ここでのイエスの祈りは、誰にも聴こえない祈り、誰もが眠り込んで聴こえない祈りではなく、すべての人に聴こえるリアルな祈りとなるのです。
■委ねることができる、ということ
この聖書の箇所が私たちに示しているもう一つのこと、それは私たちもまた主イエスと同じように、今日、「父よ」と神に祈ることができる者とされているということです。人生の中で、「もはや道がない」と思う時があるでしょう。到底一人で負うことのできない責任の重圧、生活状況の激変、大きな病、愛する者との死の別れ、呻きの現実があります。人の励ましや労い、慰めの言葉、人のほめる言葉、そのようなものが何の力にもならない現実があるのです。しかし、そこでなお立ちあがり、歩むことができるといえるそのような道があるでしょうか。「ある!」と主イエスは、ここで私たちに示しておられます。「父よ」と呼び掛け、委ねて進んでいくという道がある。その道を、主イエスがまさにこの時、切り開いておられるのです。
神様に委ねるという道がある。そう聞いて、それこそ最も頼りないこと、気休めにもならないこと、こども騙しと思われるかも知れません。最初から諦めているかもしれません。主イエスは言われました。「あなたがたは、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか」。まさに、神に委ねるということにおいて、私たちは眠り込んでしまうのです。しかし、信仰の歩みというのは「神に委ねることしかないのか」と希望なく頼りなく歩むものではありません。そう思ってしまうのは、人生は最初から最後まで自分の所有だと思っているからではないでしょうか。「委ねる」ということは、自分の人生を自分自身のものとしてではなく、神様のものとしてお返しし、その上で神様から与えられる日々を受け取って生きていくということです。自分を放棄することでも、一か八かの神頼みでもなく、神様のものとして愛されている自分を知って、その神様の手から人生の日々を受け取り、導きを信頼して生きていくということです。主が与え、主が用い、導かれます。
■立て、行こう
主イエスはゲッセマネで祈りを重ね、そして十字架という現実を引き受け担われました。それは、ご自分の勇気、使命感が決然と選び取ったものではなく、自分のすべてを神に委ねた行為でありました。その先に弟子たちが見たのは、絶望ではなく、空っぽの墓、主の復活でありました。主イエスは、そのようにして切り開かれた神に委ねる道を私たちに示しながら、「立て、行こう」と招いておられます。
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