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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■今年度のみ言葉
「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリントT 13:13)
教会おいて互いに礼拝をする、奉仕する、交わりを持つということは、いずれに関しても、神と人に対する「愛」が問われていると思います。神と隣人への愛がない礼拝、愛のない交わり、愛のない奉仕では、どれも味気ないものです。自分がどれほど神に愛されたか、その恵みを深く味わい、この愛に示されて教会で共に礼拝、交わり、奉仕を担い、また世に遣わされていく、このことを改めて確認、共有して歩みたいと思います。

■愛のための自由
「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただこの自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」。これはパウロがガラテヤの信徒たちに最も伝えたかったことです。
パウロは、かつては律法に束縛されて生きていました。定められた掟の数々を守ることに細心の注意と熱意を傾注して生きてきたのでした。しかし、人間である以上、これを全うすることは不可能、人は律法によって神の前に生きることはできないというジレンマに陥りました。パウロにとってそれは絶望的なことであったでしょう。しかしパウロはそこからイエス・キリストとの出会いを通して解放と自由を得ました。彼は第2章で「かつての自分という人間は、イエス・キリストと共に、あの十字架で死んだのだ」と言いました。十字架で罪人として死んだイエスの死の出来事に、自分自身の死を重ねて見つめ、またイエスの復活という知らせに自分自身の新しい命を見つめて立ち上がったのです。その時、自分はもう律法から自由であること、そして自らの罪と死という自力ではどうすることもできない圧倒的な支配からも自由とされていることを知ったのです。イエス・キリストと共に死に、イエス・キリストにあって新たに生かされている、その見えない事実に心の軽さ、まことの安らぎを覚えたことでしょう。神はキリストのゆえに、限りない愛をもって、この私を良しとし、赦し、ご自身の子として養い、導き、用いてくださる。これに優る恵み、強みは他になし。この解放と自由の中で、さぁこれからわたしはどう生きていこうか、と一歩先をみつめた時に、自分が「愛する」という道に立たされていることを知ったのです。「隣人を自分のように愛しなさい」。律法に縛られていた時には、すっかりなおざりになっていた一点、キリストの恵みに出会いことで目から鱗が落ちた時、はっきり見えるようになった一点でした。キリストへと召され、自由なものとされたのは、愛によって生きるため。

■人間の愛、神の愛
しかし人は、愛するということにおいてこそ不自由なものです。独り善がりの打算や疑いや葛藤が生じてきて、結局何もできず仕舞い。19節以下に、「肉の業」としていわゆる「悪徳リスト」が記されています。この中で「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、ねたみ」というものも出てきます。私たちは自分の内側を正直に見つめると、こうした心を少なからず秘めていることでしょうし、かくいうパウロ自身もそうだったに違いないと思うのです。「こういうことは駄目なのだ!」と否定し、「かくあるべし」というだけではどうしようもないのです。それは新しい律法による束縛の始まりです。私たちは、愛に生きるためにキリストによって自由とされたと言っても、何度も自分の愛の狭さ、小ささ、浅さ、限界に直面させられます。そのように、わたしたちは自分自身の愛の実態というものについては、常に嘆いておらなければならないようなものです。しかし、その時、わたしたちは自分を嘆くだけではなく、その私を良しとされる神の愛の広さ、大きさ、深さに出会わされているのです。そして、この愛に支えられ促されて、何度でも愛の道に生きようとする機会が与えられるのです。そういう自由が与えられているのです。

■神の愛に促され、用いられる
今年度のみ言葉、コリントT13章は「愛の賛歌」として親しまれてきた一節です。この中でパウロは、どんな立派な信仰や立派な賜物を持っていたとしても、愛がなければ無に等しいと言い、その愛というものは、忍耐強く、情け深く、高ぶらないものだと言います。更に続けて「愛は決して滅びない」と言いました。パウロは、愛の重要性、愛の性質ということを語った上で、その愛はどこを源泉とするのかといえば、自分自身の内ではなく、神にこそあるのだと語っているのだと思うのです。人の内に生じる愛は時に貧しく欠けだらけ、そして不自由なものですが、神の愛は「決して滅びない」、尽きて涸れることがないのです。この愛がわたしたちの内に働いて、私たちを愛の道へと促し、用いるのです。その意味で私たちは「自分自身」からも自由なものとされ、神の愛に促され、25節にあるように「霊の導きによって前進する」(25節)のです。「愛、喜び、平和、寛容、親切、誠実、柔和、節制」(22節以下)、これらはどれも人から強制されたり、禁止されたり、駆け引きの道具とされるものではない、その人自身が自由とされているところから生じる業です。改めてこの時代、この地にあってキリスト者として召され、キリストの体としての教会を形づくる一人として召されていることの意味を受け止めて、共に歩み出していきたいと願います。

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