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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■ぶどう園と農夫のたとえ
ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時が来て、ぶどう園の主人は僕を遣わして農夫たちに収穫を納めさせようとしました。ところが農夫たちの身勝手な反抗が始まります。農夫たちは、主人が遣わした僕に相次いで暴行を加え、ある者は殺害さえしてしまいました。主人が遣わした僕たちとは、旧約の預言者たちのことです。神はご自身に背くイスラエルの民の間に預言者を何度も遣わして悔い改めを求めましたが、イスラエルの民は、神に立ち返ろうとせず、耳触りな言葉を告げる預言者たちを殺したのでした。神を拒絶し、この世界がまるで自分たちの所有物であるかのように驕り高ぶった。そのようなイスラエルの歴史的な罪が象徴的に語られています。話を聞く祭司長、律法学者、長老たちは自分たちへの当てつけだと受け止めました。
主人は、最後の手段として自分の一人息子を彼らのもとに遣わしましたが、農夫たちは「しめた、こいつは跡取り息子だ。さぁ殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と共謀して、息子を殺し、ぶどう園の外へ放り出しました。
たとえ話として語られたこの物語の結末は、この後、主イエスの十字架の死において現実となりました。神が世に遣わされた独り子を、十字架刑をもって殺してしまった。「罪ここに極まれり」です。「この世界は我々のものだ」と勝ち誇り、「金輪際、我々に関わるな」と絶縁を突きつける、もはやどうにも赦されがたい、癒されがたい罪、それが十字架の出来事です。
しかし、私たちは、どうも漠然としています。「なぜ、この私が神の独り子を十字架につけただろうか」、「2000年前のユダヤの出来事が、なぜこの私に関係があるだろうか」と。しかし、「どうもわたしには分からない、わたしには関係がないことではないか」という、まさにその無自覚において、私たちは神に背き続ける自らの罪を告白しているのです。そこに罪というものの非常に厄介な、自力ではどうすることもできない本性があるのです。大魚に飲み込まれたヨナのように、罪によって飲み込まれている、罪の奴隷となっているのです。そこでは、神が何度立ち返れと呼び掛けても、応えることができず、神の言葉によって生きるのではなく、神の言葉を殺し続けている。イスラエルの罪は、このわたしの罪のことなのです。

■たとえ話の顛末
「ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻ってきてこの農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない」(9節)。主人と農夫たちの関係は完全に破綻し、和解の可能性はもう残されていない。このような結末になるに違いないと言うのです。事実、エルサレムは、紀元70年にローマ帝国によって滅亡したのです。神殿には火が放たれ崩落し、生き残った民は離散し、ほかの民がここの地に住むようになりました。そうすると、この聖書箇所は「当然の結果だ」と断罪しているということなのでしょうか。

■まさかの恵み
いいえ、ここに福音が告げられるのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。すなわち、人々が、葬り去ったイエス・キリスト、この方こそが最も重要な要の石、土台となったということです。この世の罪が絶頂に達したあの十字架の出来事が、まさか、この世の罪の贖いの出来事、神と人の和解の出来事であった。実にキリストが私たちの死ぬべき死を、滅ぶべき滅びをその身に負ってくださった。そうして、このわたしは今日、罪のままに罪赦されたものとして神に向き合うことができる。神の民として立てられている。そのような恵みが据えられた出来事だったのです。

■「わたしたちの目には不思議に見える」(11節)
十字架による罪の贖い、赦し。人間の目には一向に不思議で、理解できないことです。本当のところ、私たちには罪の赦し、罪の贖いなどと都合の良いことを語る資格はないのです。それは赦されがたく、癒されがたい罪なのです。それなのに神は、キリストの死をもって赦すと決断し、あなたは「わたしの愛する子」「わたしの心に適う者」と告げて下さった。全く不合理な神の愛、つじつまの合わない神の愛、それが揺るぎない土台として、「隅の親石」として、今日の私を、この世界を支えているのです。

■ぶどう園再建
エルサレムの「嘆きの壁」はローマ帝国によって破壊されたエルサレム神殿の外壁の一部分です。ユダヤ人たちは、そこで神殿が破壊されユダヤ民族が離散したという歴史を嘆くと共に、神に立ち返ろうとしなかったイスラエルの罪を自らの罪責として悔いるのです。しかし、キリストの十字架によって神が罪を贖って下さったという「まさか」の恵み(アメイジング・グレイス)を信じさせて頂く時、私たちは、自らを嘆き続けるのではなく、隅の親石であるキリストに支えられた者として、今こそ神が求めておられるぶどう園を創り出していくために用いられていくのです。

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