札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■この僕にわたしの霊を授ける
「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は、大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける」(イザヤ書)。
人を傷つけるのではなく、水辺の葦の傷ついた茎のように今にも倒れそうになっている者をその手で支えようとされる方。自分が光り輝くのではなく、光を失いかけている者の光をその手で大切に覆う方。マタイは、イザヤ書のこの言葉がイエスにおいて成就した、イエスにおいてこそ神の霊が働いていると伝えています。
■ベルゼブル
ところが、ファリサイ派の人々は、そのイエスを真っ向から否定しました。悪霊に取りつかれて目が見えず口のきけない人がイエスによって癒されたことについて、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と誹謗中傷したのです。「この男が悪霊を追い出したのは、悪霊の首領ベルゼブルの力を使っているからに違いない。この男は羊の皮をかぶった狼だ」というわけです。
ファリサイ派の人々が言った「ベルゼブル」。ベルゼブルの「ベル」はイスラエルが敵対する異教の神「バアル」のことです。「バアル・ゼブル」は、元々は「崇高なバアル」というような意味ですが、ユダヤ人は「悪魔の首領」の意で捉え、言葉をもじって「ベルゼブブ」(蠅の王)という蔑称で呼びました。
ユダヤ人にとって蠅は汚れたものでした。腐ったもの、死んだものを嗅ぎ付けて、そこに群がり、それらに触れた足のまま、人間の生活に入り込んできて、食べ物や飲み物に止まってなめ回す不潔な害虫。汚れや死を運び混んでくる忌々しいもの。
■蠅の王
「この男は、悪霊の頭ベルゼブル、蠅の王ベルゼブブの力を使っている」と誹謗中傷されたイエス。ファリサイ派から見れば、それは汚れたものに触れる蠅のような所業に他ならなかったでしょう。けれども、その表現は案外、イエスという方を的確に言い表しているのかもしれません。なぜなら、イエスは当時の社会において汚れた者と見なされ、遠ざけられ蔑まれていた病人に手を置き、彼らの命に触れ、寄り添った方なのです。病に触れるということは自らが汚れるということです。ある時、イエスは目の見えない人に1度ならず、2度手を置きました。「どうだ何か見えるか?」と。1回で治らなかったのは奇跡に失敗したという意味ではありません。イエスは何度でも、その人の命に触れ、汚れた者とされた痛みをその悲しみをご自身のものとして共有されたのです。
「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」(31節)イエスは、ご自分へのどんな冒涜も、すべて赦すというのです。十字架の苦難と死は、その極みの出来事です。イエスは、あらゆる讒言も、暴力や恥辱、無理解も裏切りも、すべてその身に引き受けられた。イエスが受けた苦難と死は、人間の拭い難い罪という汚れを、またそれゆえに生じる世の嘆き悲しみを、ご自身のものとして引き受け、共有し、そして決定的に赦したことの証しです。表面的な赦しでなく、私たちの全存在を、過去も現在も未来も赦しで満たして下さった。こうして、主イエスが罪人として裁かれ私たちの贖いとなられたこと、ただこの事実において、神はこの世を限りなく愛する決断をされたのです。
■神の国はあなたたちのところに来ている
イエスは、ご自分が何と言われようと構わないと言われました。すべてを引き受けられました。そうしてこの世の罪、汚れに触れ、共有し、担われた。しかし、一言だけ毅然と人々に言われました「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜は赦されない」(31節)ご自身への冒涜は赦されても、ご自身に働く神の霊、すなわち、イエスにおいて表される「傷ついた葦を支え、くすぶる灯心を消さない」その神の業、一人ひとりに対する愛そのもの否定し、冒涜することは赦されないということです。その愛を否定し、冒涜して、どこに救いがあるのか、というのです。
「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(28節)。神の国(神の支配)はここにある、と言われます。その支配は、人を踏み潰す支配ではなく、人を「支」え、「配」慮に満ちた愛です。その神の支配は今日、ここにある、始まっている。あなたがたにとってのまことの福音はここに始まっている。「ここに生きよ」と主はすべてのものを気づかせ、招いておられます。
受難節は、2000年前のイエス・キリストの十字架の苦しみを思い起こす時だけではありません。その苦しみと死を通してこの世を赦し、愛する神の霊が、今日も、私の中に、またあの人の中でも、そして喜びの中にもどんな悲しみの中にも働いているという事実、折れそうな葦を支え、くすぶる灯心を守り、誰をもみなしごとしない神の霊が働いているこの事実に気づかされ、「神の国はここに始まっている」という事実に共に気づかされ、その招きに応えていく時です。
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