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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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■終止符と解放
マタイ福音書は、1章1節でイエス・キリストの系図を書くところから始めました。それは「イスラエルの歴史」そのものであり、栄光の歴史というよりも罪と悲しみの連鎖を示すものであり、彼らを憐れみ続けた神の歴史です。系図の最後にイエス・キリストがつながるわけですが、それは血脈でによるつながりではなく、「聖霊によって」です(1:18)。連綿と繰り返された人間の過ちと悲しみの歴史に、終止符を打つべくして思いがけずイエス・キリストがつながって下さり、この歴史に神の救いが訪れたことが語られるのです。
イエスの宣教、虐げられ、遠ざけられた人々に、神の子としてのまことの誉れを告げ、神の愛と祝福によって生きる希望と勇気を与えました。人々が自分のためだけに生きる道を選ばず、互いに神の愛によって赦し合い、助け合って生きる道を示されました。どんなに時代の闇、人生の闇が深かろうと、希望を失ってはならない、愛を捨ててはならない、神への信頼を捨ててはならない、と。神がこの世を治め、やがてその御業を完成される時が来る。だから、恐れるな、思い悩むな、目を覚まして神の子として今日を生きよと。

■まことの過越し、まことの出エジプト
しかし、人々はイエスを妬み、憎み、罪人として十字架刑に処しました。この十字架の死の出来事に、人々はやがて神の業を見ました。神はこのようにして世の罪を贖ってくださったのだと。イエスが十字架で流された血、その犠牲によってこそ、長く罪の奴隷であった歴史に終止符が打たれ、まことの過越しは成し遂げられ、そこから「出エジプト」をした、解放されたのだと。
罪贖われ、神の民として解放された私たちは、どこに向かって進めば良いのでしょうか。出エジプトの民は、モーセをリーダーとし、二つに分かれた海の間を通って40年の旅を続け約束の地に至りました。私たちも同じなのです。罪の支配から解放された者は、洗礼によって水の中をくぐり、真の羊飼いである復活の主と共に、この方に従って歩む旅を始めていくものとされたのです。

■イースターの喜び
主イエス・キリストの復活を互いに喜び祝うイースター、何があなたにとって「おめでとう」なのでしょうか。それは、イエス・キリストによって、罪と死から解放され、復活の主と共に生きていく私たち自身の新しい旅の始まりの出来事だからです。イエスの納められた墓は破られ、中は空っぽでした。それは、死という絶対的な力が破られ、空っぽにされたということを意味します。これは主イエスに起きた出来事であると同時に、私たち自身に起きた出来事です。神に背き、その罪のゆえに死と滅びに定められた人間は、しかし、この罪の歴史につながってくださったキリストのゆえに、解き放たれ、神の前に生きる者とされました。それは終わりの見えない長く深い暗闇に曙の光が差し込むような、厳しい冬にいのちの春が訪れるような出来事です。私たちは、復活の主と共と神の愛の光の中を歩んでいくものとされたのです。その光は月のような満ち欠けもなく、太陽のように沈むこともないのです(イザヤ書60章)。その光の中を、羊飼いである主に従い、主に導かれて歩んでいくものとされた、この恵みを喜び祝うのです。

■復活の主に出会う「場所」
「ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。待ち合わせのガリラヤの山で、復活の主イエスは弟子たちに告げました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊に名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
「あなたがたに命じておいたこと」とは、何を指しているでしょうか。かつて主イエスはガリラヤの山に登り、そこで弟子たちに教え(山上の説教 5〜7章)を語りました。そこで教えられたことは、一言で言うとするならば、地の塩、世の光として生きること、自分自身を追い求めるのではなく他者を愛し、仕え、赦すことであり、平和を求めることであり、どんな時もこの私を知って下さっている神にこそ望みを置くことです。復活のイエスは、あの日この場所で語った教えへと弟子たちを呼び集めたのではないでしょうか。そして、「あの日わたしがここであなたがたに伝えたことを、人々にも伝えよ」と言われるのです。
今日、私たちもまた主から「ガリラヤのあの山、そこで会おう」と招かれています。主イエスの山上の説教へと立ち返るよう招かれています。そこに主に贖われ、解き放たれた新しい私たちの生きる道がある。そして、この教えを生きる中でこそ、私たちは、まさにこの教えのように生き、死なれた主イエス・キリストに出会い、この方に導かれていくのです。

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