札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
>札幌北光教会/トップ >牧師紹介・説教 >だれを捜しているのか
■眼差し
主イエスを捕えるためにゲッセマネの園にやってきた人々は、松明を手にしていました。
松明の灯りで浮かび上がったイスカリオテのユダの表情はどのようであったしょう。そして、主イエスのユダへの眼差しは、どのようであったでしょう。わたしにはユダを「悪魔」や「滅びの子」として憎しみ蔑むようなものには思えません。彼のすべてを受け入れる温もりの眼差しであったのではないか。そして、同じ眼差しが、今日わたしたちに向けられています。
■闇と光
夜の闇と松明の光のコントラスト。それはすべての人間を照らす愛の光としてのイエスと、それを覆い尽くそう、捕らえようとするこの世の闇を象徴しているようです。ヨハネによる福音書を最初に読んだ人々は、ローマ帝国による支配と抑圧に晒されていたキリスト者共同体の人々でした。彼らは、闇が光を飲み込もうとする緊迫したこの場面は、自分たちが晒されている現実とを重ね合わせて読んだことでしょう。わたしたちもそうです。ここには私たちが置かれている現実が表されています。様々な圧力や搾取、暴力や格差、人々の心をどこまでも疑心暗鬼に蝕む、あるいは人間の良心を眠らせるような闇の現実で、私たちは何を見つめ、どうあるべきか、そのことがこの箇所から問われています。
先週は2月11日を覚えました。かつて教会は日本が戦争遂行のために、「アジア解放」「共栄圏」を謳って突き進んだ侵略と殺戮に協力し、自己保身に走った歴史がありました。天皇絶対主義のもと挙国一致で突き進む闇の力、盲目の中で真理を見失ってしまいました。戦後の教会は、その反省と罪責告白のもとに再び歩み出しました。ともすれば、ユダと同じようにイエスを裏切り、イエスを捕え、支配しようとする闇の側に自分たちがついてしまう弱さを持っていることを告白したのです。教会は、その弱さを自覚しつつ、その過ちを繰り返さないために、いつも自らと社会の在り様を問い、問われながら存在し続けています。
■「わたしはある」
ここで、主イエスは、闇に対して逃げ隠れせず、むしろ自分から進み出るようにして「誰を捜しているのか」、「わたしである」と言うのです。「わたしである」は、別の箇所では「わたしはある」(以前の口語訳聖書では「有って有る者」)と訳されている特別な言葉です。モーセが神にその名を尋ねた時に返って来た応えが、「わたしはある」という者だ(出エジプト3:14)でした。その名は神の存在の如如何なるかを表しています。神とは他の誰かによって神とされるのではなく、自ら神として有る方、いかなる条件にも左右されず存在する絶対的・不変的存在であるということだと理解できます。しかし、また一方で、「わたしはある」という言葉は、「有るものを有らしめる」、「存在たらしめる」という意味にも解釈される言葉です。つまり、「神とは、存在をたらしめる方である」ということです。神は、自ら神としてある方であり、また、わたしという存在をその愛でもって存在足らしめる方です。
主イエスはここで、ご自分を捕え、葬ろうとする闇の力に対して、逃げ隠れせず「わたしはある」と告げることにおいて、神は、何ものをもってしても打倒されず、すべての人を照らす神の愛の光を覆うことはできないことを示されたのです。
■誰を捜しているのか
主イエスは御自分を捕えようとする人々に言いました。「誰を捜しているのか」(マグダラのマリアに告げた言葉と同じ 20:15)。それは、「あなたたちは一体、何を探し求めて生きているのか」という、わたしたちへの根本的な問いかけに聞こえてきます。あなたは、何を求め、何を捜して彷徨い闇の中を生きているのかと問い、そして、「わたしはある」とご自身を示されるのです。「わたしはある」、今日も明日もあなたを愛する神の愛があるのだ、これこそがまことの命の光であることを示されました。
■一人も失わない愛
「イエスが『わたしである』と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」(6節)。ユダも倒れた一人だったと思います。「わたしはある」と告げる、この決して倒れることのない神の現実を前に、ユダもまた後ずさりして地に倒れたのです。その時、主イエスは人々に言われたのです。「わたしを捜しているなら、この人々は去らせなさい」。別の福音書では、イエスを見捨ててその場から逃げだす弟子が描かれますが、ヨハネ福音書では、むしろ、イエスの方から「この人々を去らせなさい」と言われるのです。「それは『あなたが与えて下さった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった」(9節)。味わい深い言葉だと思います。ここにユダの救いも語られていると思います。主イエスにとって、ユダもまた失われてはならない一人として覚えられ、担われているのです。そして、主イエスは独り十字架への道を進んでいかれるのです。
「わたしはある」「わたしはあなたを見捨てない」。ユダを見つめた主イエスの眼差しと同じ眼差しが、今、わたしたちにも向けられています。
⇒ 前のページに戻る