札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■「強盗」
エルサレム神殿の境内で、突然、大暴れして人々を皆その場から一掃したイエス。ショッキングな出来事です。境内に両替商がいたり、鳩を売る商人がいたというのは、巡礼者たちのニーズがあるからです。ローマ皇帝の肖像が刻印された貨幣は偶像礼拝にあたるのでユダヤ古来の銀貨に換金しなければなりませんでした。遠方からの巡礼者には境内で犠牲の鳩を購入できることは便利でした。イエスの行動は、商人からすれば営業妨害、巡礼者からすれば信仰の妨害になったでしょう。
イエスは言いました。「わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたがたちはそれを強盗の巣にしている」。人々を強盗呼ばわりしました。イエスの激しい怒りは、特定の人々だけでなく、神殿を中心として形成されているユダヤ社会全体に対するものです。神殿とは本来、神への礼拝の場、祈りが献げられる場。しかし、実際は、献げるのではなく、むしろ神から盗み取ってしまっている。何を?神の栄光を!人々は、神の栄光ではなく、自分の栄光を求め、富や権力や名誉を貪って生きている。本来それらすべての源である神に感謝し、神に栄光を帰することを忘れて、気付かぬ内に自分が神になりあがってしまっている。そのような現実をイエスは「強盗だ」と言うのです。
■「祈りの家」
「私の家は祈りの家と呼ばれるべきである」。これはイザヤ書56章7節の引用です。イザヤの預言が告げられた時代、イスラエルは、バビロンに神殿を破壊され、アイデンティティ喪失の危機にありました。その苦難の中で、神は預言者の口を通して告げられたのでした。「わたしは祈りの家にあなたがたを一つに集める」「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と。それは、あなたがたを再び「祈りの家」に一つに集めるという、神殿再建と民族再生という希望の約束であると共に、「すべての民」への言葉でした。イスラエルの民だけでなく、異邦人も割礼のない宦官(同3節)も、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す、と。やがてバビロン捕囚から解放され、エルサレム神殿は再建を見ました。それは、神が絶望の中にあっても自分たちを守り、あるいは罪深い我々を憐れみ、ご自身のもとに一つに集めて導いて下さったのだという恵みの証しとしての神殿でした。しかし、時を経て、今、主イエスの目にそこは「祈りの家」ではなくなってしまっていた。表面上は、荘厳なエルサレム神殿で、それらしく祭儀が執り行われ、祈りや犠牲や献金が規定通り献げられているけれども、内実は神から心が遠く離れてしまっている。祈りが、礼拝が形骸化し、内心には強欲と打算が満ちていた。自らの歴史と罪を見つめ、また神の憐れみを確かめて悔い改めるどころか、神の憐れみをいつしか自分たちの特権のように振りかざしていた。そのような堕落を主イエスは厳しく問うたのです。
マタイによる福音書が記されたのは、紀元80年頃。紀元70年のユダヤ戦争でエルサレムが神殿も街も破壊しつくされた後です。つまり、この話が記された時には、既にエルサレム神殿は存在しないのです。この箇所は、神殿崩壊の原因がそのような堕落にあると解釈しているのでしょう。それと共にあるべき神殿の姿を物語っています。14節で目の見えない人や足の不自由な人たちが集まってくるのです。レビ記には目や足の不自由な者は聖所を汚すことになるから立ち入り禁止と定められています。神殿に入ることが許されていない彼らがここで癒されるのです。また15節では、境内で叫ぶこどもたちがいます。イエスを歓迎した群衆を真似るように「ダビデの子にホサナ」と賛美した。こうした光景は、本当にイエスを迎え入れたのは誰なのかということ、そして神はすべてのものを憐れみ招かれるということを象徴しています。社会の中で遠ざけられ、軽んじられていた彼らの存在がここで注目されながら、神が望まれる神殿というもののあり方が示されています。すべてのものが神の顧みを受け、「祈りの家」の喜びの祝いに連なるものとされている。すべてのものの源である神に、栄光も苦悩もまるごと神の愛の中に委ねて生きていく、そのような神と人との関係が築かれるところ、それこそが本当の神殿であり、それはもはや「建物」のことを意味しません。
パウロの言葉を借りるならば、あなたがたこそ聖霊の宿る神殿なのだ、ということです。神は、今日も、あなたがたの間に、あなたがたを用いて、臨在し、働かれるのだということがここに語られています。神殿とは違い、実に脆く崩れやすくかけだらけの私たちですが、それこそ飼葉桶のように貧しい私たちのただ中に、神は人としてお生まれになり、自らを献げられたのでした。一人ひとりを、そしてすべてのものをご自身の愛と憐れみに招き、生かすために。そのキリストの体として、この札幌北光教会が生きているということ、そこに教会の命と豊かさがあるということをいつも見つめ、求めていきたいと願います。
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