札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■土の器
パウロは、イエス・キリストを人々に宣べ伝えるために数々の苦難に直面しました。人々の拒絶、敵視、侮辱のみならず、命の危険に直面することも幾度もありました。もし、パウロが、「自分が偉大なことを成し遂げよう」「自分こそが成し遂げねば」と、自らの熱意や力に基づいて働いていたならば、とっくに挫折してしまっていたことでしょう。しかし、彼はそこで自分自身の力というものを捨て、むしろ自分については徹底して「弱さ」に留まることによって、その働きを担い続けました。それは「自分こそが偉大な働きを成し遂げる」のではなく、「すべては神の御業であり、自分はそのために用いられているのだ」と受け止めていたからです。
「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(7節)イエス・キリストという宝に比べたら、これを納めている自分自身は、どこまでも「土の器」に過ぎないということです。この宝は、パウロが自分の力や自分の正しさによって獲得したものではなく、ただ神が恵みをもって一方的に与えて下さった恵みでありました。パウロ自身は、ただ土の器に過ぎなかったのです。同様に、伝道者としての自分の働きにおいても、自分は土の器であって、すべては自分ではなく神から出た御業でありました。だからこそ、パウロは、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない」と言うことができたのでした。
■イエスと一つとされている
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」(10節)。パウロは自分がイエスの死と復活の命に一つとされていることのゆえに落胆しません。これは私たちの生き方・死に方でもあります。私たちはイエスの死を身にまとい、またそれゆえにイエスの復活の命をもまとっています。わたしたちは、主イエスと共に十字架で罪の内に死んだのであり、またそれゆえに、イエスと共に神によって新しい命へと呼び起こされているのです。神はこのようにして、このわたしを罪と死の束縛・支配から救い出して下さり、神の子として生きる者として下さいました。それほどに、このわたしを極みまで愛して下さったのです。この愛を宝として与えられ、この愛によって導かれている、だからこそ、苦しめられて行き詰らず、途方に暮れても失望せず、死という絶対的な力に直面する時も、ここにキリストの命が現わされていくことを希望して、終わりではなく、始まりを見つめていくことができるのです。
■希望は、失望に終わらないから
希望である
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」
「だから、わたしたちは落胆しない」。「失望しない」と言っても良いでしょう。しかし、私たちは、自らの欲によって生きる「肉の人」すなわち「外なる人」においては、心が真っ暗になり、衰弱し、落胆しきってしまう、失望に陥ることがあるでしょう。しかし、そこで思うのです。そもそも、失望に終わってしまう希望というものは、本当に希望と言えるものなのか、と。希望というものは、失われないからこそ希望なのではないでしょうか。
■希望が私たちを包んでいる
ここでパウロが、「わたしは落胆しない」「失望しない」と言うのは、自分がしっかりと希望を持ち続けるという意志の強さのことを言っているのではなく、むしろ、決して失望に終わらない本当の希望によってわたしは包まれているのだということです。神は人間が求めたのでもないのに、独り子イエス・キリストを与えてくださり、この世をこのわたしを愛して下さり、キリスト共にこのわたしを命へと導いて下さいました。この神の愛に完全に捉えられ、包まれていること、ここに本当の希望と言えるものがあるのです。この希望に「落胆」「失望」の二文字はないのです。
■「だから、落胆しない」
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(18節)。この希望は目には見えません。やがては朽ちていくこの限りある目では捉えることはできないのです。たとえ、この体は朽ちて死んだとしても、神の愛は過ぎ去ることなく、このわたしをとらえていて下さる、この希望によって、わたしたちは、日ごとに新たに生かされていくのです。
逝去者記念礼拝の今日、私たちは、死の悲しみを更新するために集められているのではなく、この方々を決して過去のものとして過ぎ去らせず、永遠に愛する神に出会うために集められています。天上の友名簿に記された方々の名を記念する時、この方々すべてのまことの希望としておられるイエス・キリストの名をこそ心に刻みたいと思います。そして、この地上において、キリストにありて「だから、わたしは落胆しない」「失望しない」との告白を胸に、「土の器」として主の御業の中を歩んでいきたいと願います。
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