札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教


牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
説教

■「この一人」を重んじる
マタイによる福音書18章は、弟子の問い掛けに対する主イエスの応答という問答形式です。主イエスの答えは、「この一人を重んじよ」という点で一貫しています。10節以下で、99匹の羊と1匹の迷い出た羊のたとえ話が語られます。99匹よりも見つけ出した1匹の羊のことを喜ぶというところに神の愛の本質が示されています。神のまなざしに不特定多数はなく、いつでも具体的な一人が見出されています。そして、「この一人」を思う神の愛は決して諦めないがゆえに絶対であるということです。そして、これほどまでに神の愛によって重んじられた者として、他者のことを重んじるということが教えられているのです。「天の国」はそこに見出されるのです。しかし、わたしたちは度々、この天の国を忘れてしまいます。わたし自身が天の国から迷い出た一匹の羊になってしまうのです。しかし、迷い出て一匹・一人となる時にこそ、この私を探し出す神の愛の現実をもう一度知り、連れ戻されるのではないでしょうか。

■問われているのは、「今この時」
弟子が再び主イエスに問い掛けるのです。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。「何回赦すべきでしょうか。7回までですか」。質問者のペトロには、「7回」という答えが既にあります。彼なりの許容範囲の尺度で見積もった最大限の回数でしょう。おそらく私たちもそういう尺度を持っているものでありまして、要するに「赦しとか、愛というものには限界がある」という考えに立っているのです。愛や赦しといっても、それは所詮、永遠不変のものでは有り得ない、そんなことは無意味であると考えます。
しかし、そこで主イエスは「7の70倍までも赦しなさい」と告げるのです。赦しや愛には終わりがないという意味です。これは、赦しというものは、いつでも「今この時」が問われているということではないでしょうか。これまで何度赦したかという「過去」でもなく、あるいは、この先いつまで赦せるだろうか、愛せるだろうかという「未来」の問題でもなく、問われているのは、「今この時、その人に真実に向き合う」という現在のみです。いつでも「今この時」が問われているのです。その意味で、愛と赦しというものには終わりがなく、あるのは「始まり」だけ、その人に向き合う「今」だけです。そして、そこでは、あなたは何者としてその人に向き合っているのかが問われるでしょう。あなた自身が、神によってどんなに大きく赦され、愛されて生きているのかを。

■愛は「合い」すること
主イエスは、ここでたとえ話をされました。王を欺き、私利私欲のために莫大な損害を生じさせた一人の家来のことを、王が憐れんで赦したという話。それはただ借金を帳消しにした、罪を帳消しにしたということではなく、王が家来のことを重んじ、関係を取り戻してくれたということです。この様な王に仕える家来として彼がなすべきことは、自分が赦され愛されたように、自分に負い目ある者を重んじて、その都度その都度、真実に向き合おうとするということでしょう。そのことが、自分が王によって赦された関係を生きている証しであるからです。愛するということは、その人に向かい「合う」ということに通じているように思います。赦しは愛の問題です。自分の心の中で束縛し、自分の正義でもって決めつけ支配してしまっていた者を解放して一対一で向かい合うということです。そして神の憐れみ、神の愛という光の下でその人を再発見し、交わりを回復していくことです。

このたとえで語られているように、神は私たちとの交わりを取り戻して下さいました。神を忘れ、神を欺き、あるいは神を拒絶したわたしたちの人間の罪を、十字架のキリストのゆえに赦すと決断し、私たちをいつでも神に向き合う者として下さました。そのような者としての私たちにとって、自分の人生の証しとは、「あれをした、これをした」、そういう自分の功績ではもはやありません。目の前の他者に向き合って生きること、その姿こそが神に愛され、赦されたこの私の生きた証しとなるのです。そこで天の国というものは垣間見られるのです。

〜 2021年バックナンバー 〜

〜 2020年バックナンバー 〜

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について