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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
説教

■「遠慮なければ近憂あり」
「遠慮」という言葉は、一般的に「行動を差し控える」という意味で用いられますが、文字通りに理解すれば、「遠くを慮る」ということです。目の前の相手や物事について、その人や物事の背景や将来について慮る、思いやることです。ことわざで「遠慮なければ近憂あり」というものがあります。これは目先のことばかりに執着して、遠い将来のことを考えずにいると、近い将来心配事が生じるという意味です。より遠く広い視点から今この時を捉えることの大切さを教えています。

■あなたがたは、その日、その時を知らないのだから
このたとえ話において、賢い5人は「もしかすると、途中で油が切れるかもしれない」と思って予備の油を用意していましたが、愚かな5人には「なんとかなる」という見通しの甘さがありました。当面は大丈夫であっても、この初動の違いが後に致命的な結果につながったのでした。
「あなたがたはその日、その時を知らないのだ」と主イエスは言われます。たとえ話において10人全員が眠り込んだのは、そのことを指しています。私たちは、主イエスが私たちを訪れる時、主に出会い、主を喜び迎える時、それがいつであるかということを予知・予見することはできません。しかし、だからといって眠るのみではなく、そこで出来ることがあるわけです。それは、主は必ず来られる、主に出会い、主を喜びをもって迎えるその時が必ず来るということを信じ、今はそれが見えなくとも、備えをするということです。

■主の御手が導き、完成する
ヘブライ人への手紙11章には、信仰によってアブラハムは、行き先も知らずに旅に出発した。信仰によってノアは、まだ見ていなくとも箱舟を造ったのだ、とあります。そうして彼らは、天の故郷をはるか遠くに臨みながら、自分が帰るべきまことの故郷を見つめつつ、この地上を旅人として歩んだのだ、と。地上の旅において、なんの見通しもない中で、それでも彼らを立ちあがらせ、歩ませる保証・希望となったのは、手近な目に見える何かではありませんでした。彼らは、神が自分に与えて下さっている「信仰」を自分の人生の保証として、遠くに天の故郷を見据え、今日という旅の一歩を踏み出し、今日の働きをなすということができました。人生は、わたしが自分の手で完成させる、自己完結するものではありません。創造主である神の御手が備え、そのみ言葉によって導き、そして完成されるのです。その神様の御手、神様の時に自分を委ねつつ、この日、この時を生きていくのです。それなしに、ただ目先に執着し翻弄されるばかりであれば、それ即ち「遠慮なければ近憂あり」です。

■待ち望む
遠くを慮る、確かに備えられているその時を見据えつつ、今ここで行動する、一歩を踏み出す、これが教会的に言えば「待ち望む」という生き方です。主を待ち望むとは、ただ成り行きのままに時を過ごすことではなく、また「こうなれば良いのに」と儚く望みを抱き、現実にはため息ばかりをついて過ごすことでもなく、主が備えられているその時に向けて、自分もまた備えて行動するという姿勢です。
神様は、天気予報のように「その日、その時」を教えては下さいません。それは私たちにとって不都合で、不便で、不安なことに思われます。しかし、その日その時を知らされない、先が読めないからこそ、私たちは「この日、この時」に真剣に向き合って生きることができるというものなのではないでしょうか。コロナ禍であってもなくても、実は私たちは見通せない人生を生きている者です。しかし、そんな「その日、その時を知らない」私たちに、主イエスはこうも言われます。「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:34)と。これは無責任な言葉ではありません。「あなたの明日は、あなたを愛する主が確かに備えて下さっているのだ」という約束です。あなたは、その神の愛がいかに真実であるのかイエス・キリストこの方に見つめながら、「この日この時」を生きていきなさいということです。

■主の御旨のみが実現する
「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言19:21)。この国の政治を見るとき、いかに目先だけの動き方をしていることでしょうか。新たな政権が出来たかと思うと、「鮮度が落ちる前に」「ボロが出る前に」総選挙に突入だと言わんかのように解散しました。まさに「遠慮なければ近憂あり」という有様でないでしょうか。そうした人間の計らいが実現するものとは、本当に「実現」と言える確固たるものでしょうか。むしろ、なんとも脆弱で、崩れ消え去るものに過ぎないのではないでしょうか。まことに「実現」すると言えるものは、神の御心のみだと聖書は告げます。マタイによる福音書が繰り返し強調するのは、主イエスの降誕や十字架の死や復活の出来事はすべて、旧約預言の「実現」であったということです(マタイ1:22、27:9など十数カ所)。降誕に際してはヘロデ大王の企てがあり、十字架に際しては、弟子の裏切りや権力者の計略がありました。様々な人の目先の企てがうごめく中で、しかし本当に実現したのは、ただ神の言葉であったのだと。
「その日、その時を知らない」わたしたちです。しかし、だからこそ主の御旨とその導きこそ確かであると信じて、「この日、この時」を深く落ち着きをもって生きていくことができるし、またそのように教えられているのです。

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