札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教


牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
説教

■知られざる神
アテネは、ギリシャ文化・思想の中心地です。世界各地から最高の知識を求めて集まって来た人々が四六時中盛んに論議している、そのようなところにパウロは福音を携えて来たのでした。パウロは、アテネの町にあった『知られざる神に』と刻まれた祭壇を切り口に語り出しました。アテネの人々は、種々の偶像を祀っていましたが、なお自分たちがまだ把握していない神々が存在すると想定して祭壇を築き祀っていました。
人生は、たとえ様々な神を熱心に拝んだとしても、なお不条理です。自分には理解できない、把握できない現実が迫ります。「この世界には、自分たちが把握していない得体の知れない神的な力が働いていて、その力に脅かされ、振り回され、あるいは導かれているのかもしれない」。そのような心理が「知られざる神」を生み出し、これを畏れたり、崇めたりしたのです。しかし、それは神への親しさや信頼によらず、人間の不安や貪欲の偶像化に他なりませんでした。
偶像は、人間の心理が反映されたものですから、当然、人間の思いを良く理解してくれるものとして崇拝されるのですが、その実何の力もありません。そこでは常に神の思いに先立って、人間の思いがあるのです。そこでは、救いは「彼岸」であり続け、決して「救いの現実を生きる」者とはなりません。数々の偶像は、その人が決して「救いを生きていない」証拠となっているのです。

■天地の造り主
パウロは、神が「天地の主」であると言いました。「天」とは、「上空」を指すのではなく、「人間に把握できない被造物」と理解したいと思います。この世界には、把握できる被造物としての「地」と、把握できない被造物としての「天」があり、どちらも神の被造物なのです。従って人間が自分に把握できないものに神的な力を思ってそれを畏れたり、崇めたりするのは間違っているのです。畏れるべきは、天地の造り主なのです。また、人間は自分の命と息の源、季節や民族や居住地といった環境の源のすべてを神に持っているのであって、それは「探し求めさえすれば、見出される神」なのだとパウロは言うのです(27節)。

■キリストを見よ
「探し求めて、見出される」といっても、それは人間が自分の思考や感情・感覚で神を発見できるということではありまえん。この世界の秩序や自然を眺めていれば、おのずと神というお方が分かってくるということではないのです。私たちが必要とし、探し求め、そこで神は見出されるのではありません。ただ神がご自身を現わして下さることによってのみ、私たちは見出せるのです。この世が「見もせず、聴きもせず、あるいは思い浮かびもしなかった」(Tコリント2章)ところで、神はご自身を、イエス・キリストにおいて現わす(啓示)ことを決断されたのです。ですから、「探し求めさえすれば、神を見出すことができる」とパウロがいう時、それは神がご自身を現わされたイエス・キリストを見よということに他ならないのです。
教会が神を象った像を作ってそれを拝んだりしないのは、神には実体(姿形)がないからではなく、神はイエス・キリストにおいてご自身のすべてを現わされたのだから、それ以外に人間が造り出し、頼みとすべきものは何もないということです。キリストにおいて「知られざる神」は、唯一真の神として見出されるのです。

■キリストの死と復活に現れた、無知の 世への神の愛と赦し
パウロは、アテネの人々にイエス・キリストの死と復活を証しします(31節以下)。キリストの死からの復活によって、神は死をも支配する方としてのご自身を現わされました。そして、キリストにおいて神は、やがて来るべき終わりの時、生きている者と既に死んだ者をすべて正しく裁かれるというのです(31節)。終わりの日の裁きがあるということ、それは神こそが初めであり終わりであるということ、天地の造り主であり完成者であるということです。神はキリストにおいて、すべての者を正しく裁かれます。しかしその裁きは、決して絶望と恐怖の出来事ではありません。なぜならば、神はキリストの十字架の死において、既に無知の世を完全に贖い、その愛と赦しを決して下さっているからです。そして神はキリストの復活において、その愛と赦しが十字架で力尽きた過去の愛ではなく、永遠の愛であるということを現わして下さっているのです。
このようにしてキリストの死と復活において、ご自身の愛と赦しを現わされた神についてパウロは語ったのです。しかし、人々は「それについては、いずれまた聞かせてもらおう」(32節)と、まともに向き合おうとしませんでした。神の愛と赦しを見くびり、嘲るのです。神の愛を「知られざるままに」過ごすのです。聖霊降臨の出来事において人々が神の偉大な業を語り出した時も、ある人々は「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲りました。それ以前に、主イエスは人々の嘲りの中で死なれたのです。神は、いつでもそのような人間の無知の中で、決して諦めず、見捨てず、その愛をもって世を担い、呼び掛け、ご自身を示し続けるのです。その呼び掛けは聖霊によって、今日、私たち一人ひとりにも向けられているのです。このことに対し、私たちは「今は、コロナで教会に集まることが出来ないから、状況が落ち着いたら、いずれまた教会で聞かせてもらうことにしよう」というべきものではありません。今、まさにこの不条理な現実の只中で、神は「知られざる神」としてではなく、イエス・キリストにおいてご自身を示し、このわたしの愛にこそ生きよと呼び掛け、招き、この愛から遣わそうとしておられるのです。

〜 2021年バックナンバー 〜

〜 2020年バックナンバー 〜

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について