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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
伝道師 野田 祥(のだ しょう)
説教

■門前払い
エチオピア女王の財産管理を任されていた高官。名は記されることなく、彼が「宦官」であったという事実が注目されます。彼は、エジプトの南方エチオピアからはるばるエルサレムにやってき、礼拝のため神殿を訪れました。彼はいつからか、ユダヤ人の神を慕い求めていました。つまり、何によっても満たされない渇き、根無し草のように漂う不安が魂の内にあったのではないでしょうか。しかし、異邦人である彼には、エルサレム神殿の最も外側にめぐらされている垣までしか近づくことは許されません。割礼を受けユダヤ人となれば、それだけ聖所に近づくことができるものの、彼は去勢された宦官。「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」(申命記23:2)のでした。荘厳なエルサレム神殿は、彼に神との遠さを痛感させ、無言で門前払いするのでした。

■手引きしてくれるのは誰?
馬車で帰途についた宦官は、イザヤ書を朗読していました。しかし、エルサレムから遠ざかるにつれ、彼の心もまた聖書の言葉を遠くに感じたかもしれません。イザヤ書を朗読はできても、そこに記された恵みの領域に踏み込むことは決して出来ないのですから。
ここに遣わされてきたフィリポが「読んでいることがお分かりになりますか?」と尋ねるも、宦官は「手引きしてくれる人がいないとどうして分かりましょう」と答えました。単に、彼の読解力不足ではありません。イザヤ書の言葉を自分へのメッセージとして読む資格がない、という悲しみがあるのです。そこでいくら読んでも本当には分かってこないのです。
宦官は、イザヤ書53章に記されている「軽蔑され」、「見捨てられ」、「刺し貫かれ」、「打ち砕かれ」、罪をすべて負わされた小羊のような「彼」とは誰のことかとフィリポに尋ねました。フィリポはそれがイエスのことであると教えました。更には主イエスの受けた十字架の死によってこそ、我々が罪の虜から贖われ神の子としての喜びを与えられたのだということ、見捨てられた一人をも慈しみ、神の愛と祝福を告げたイエスが、復活して今日も生きておられるということ、今こうして自分が遣わされてやってきたこと自体がその証拠であるということをも語ったのではないでしょうか。(また、イザヤ書56章に記された約束は、宦官にとってどんなに慰めとして心に響いたでしょう)
がたごと馬車に揺られる宦官は、今、神の愛によって激しく揺れました。「手引きしてくれる人がいなければ…」と言った彼は、自分の命そのものを手引きするイエス・キリストに捕えられました。この私をも神の子として生かすために、自分を捨てられた方がいたのだということ、その方が復活して、今日こうして生きて働いておられる、その恵みを知りました。

■ここに水があります
「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」。この言葉には、宦官の「わたしも洗礼を受けて良いのだろうか?」との躊躇が感じ取れます。しかし、そんな彼の手を神の愛がグイと引っ張るように彼は洗礼へと導かれました。「ここに水があります」この言葉は、「ここに神の愛がある」、「ここにわたしに神の決意がある」そのようにも聞こえてくるようで印象的です。いまここにある恵みの現実を拒絶する理由など、どこにも、だれにも、ないのです。
洗礼は、神様の決意の表れです。イエス・キリストにおいて示して下さった神の愛と赦しが、今ここにある、ここに生きて働いている、ということ見える証し、啓示です。「わたしはあなたを愛する、あなたを赦す」、この神様の決意は、人がその心の中で、「これは信じられる」とか「信じられない」というその時々に変わり得るような不確かな次元のものではありません。この決意を妨げ、覆すことは、死をもってしても不可能なのだ、ということがキリストの復活に示されました。「ここに水があります」、即ち「ここに神の愛がある」この真実に進みゆくものを妨げるものは何もありません。

■「寂しい道」を、「喜びに溢れて」
39節「宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」。
そこは「寂しい道」であったのです(26節)。そして、洗礼を受けてもなお、「寂しい道」は続いていくのです。このことはわたしたちの歩みに置き換えられるでしょう。わたしたちは、人生の中で寂しさを経験し続けるのです。喪失、孤独、老いetc。その時、洗礼の事実は、砂漠の一滴のような儚い出来事でしかないのでしょうか。そうではない。寂しい道こそ、主に見出された道であるということをこの箇所は告げています。主がこの寂しい道をも共にし、何をも妨げとせずに終わりまで進んでくださる、その決意が、私たちの命をこんこんと湧き出る泉のように満たし続け、支え続けるのです。

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