札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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■異邦人の訪問
エルサレム巡礼にきた人々の中に、何人かのギリシア人がいました。彼らは、イエスに会わせて欲しいと、弟子のフィリポに仲介を願い出ました。フィリポは仲間のアンデレにこの旨を相談しました。異邦人である彼らをイエスに会わせても良いのか、二人の心には戸惑いがあったのかもしれません。そして、二人してイエスに相談しにいくのです。
ギリシア人たちは、たとえ「何人か」であっても、ここで、すべての異邦人を代表していると言ってよいでしょう。そんな彼らの訪問は、イエスの心に時の訪れを告げました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」(23節)。イエスの言われる「時」、それは十字架の時に他なりません。「今こそ、わたしの十字架の死を通して、ユダヤ人や異邦人という枠を超えた、すべての民に対する神の御心が表される時が来た」ということです。
イエスは、ご自分を一粒の麦に譬えました。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒の麦のままであり、地に落ちてこそ豊かな実が結ばれる。このようにご自分の死が、すべての民に命を実らせるというのです。「わたしはまさにこの時のために来たのだ」(27節)
■収穫感謝
本日は「収穫感謝礼拝」です。大地の実りがわたしたちに与えられている、こうして神様によって生かされてあることを感謝の内に思う時、何より、主イエス・キリストこそが、一粒の麦としてこの世に蒔かれ、十字架の出来事を通して、死んで虚しく滅ぶはずであったこの私たちを、神の前に、黄金に色づいて輝く喜ばしい実りとしてくださった(ヨハネ4:35)ということを思いたい。イエスは、ご自分が一粒の麦のままでいよう(いたい)とする利己的な愛にとらわれず、ご自分の命を捧げ尽くしてくださいました。その捧げられたイエスの命を受けたものとして、私たちは新たに神の子としての生きるものとされています。この恵みに感謝すると共に、私たち自身も一粒となること、自分の命をこの地に蒔いて生きることが願われています。たとえ、それが誰も気づかないような小さな一粒であろうとも、その一粒なしに豊かな実りは得られないのであり、主はその一粒を決して疎かにはされない、無駄にはされないのです。ここにキリスト者として生きることの動機があります。
■自分の命を憎む!?
「自分の命を愛する者は、それを失うが、自分の命を憎むものは、それを保って永遠の命に至る。」(25節)
「自分の命を憎む」とは、穏やかではありません。もちろん、自分の存在を否定し、嫌悪し、命を粗末に扱うということではありません。「自分の命を愛する」ことの反対という意味です。自分を愛するとは、自分だけを愛し、自分の救い、自己満足、自己実現、ただ自分のためだけに生きる、「一粒のままでありたい」という利己主義です。主イエスは、「そこに命があるのか」と問われるのです。人生においてそれだけが望みであるかのような、それらにしがみつくよう自分を捨てよと言うのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」との言葉と同じです。
■わたしのいるところに、あなたはいるか
「わたしに仕えようとするものは、わたしに従え。それすれば、私のいるところに、わたしに仕える者もいることになる」(26節)
「わたしに従え、そうすれば、わたしのいるところに、あなたはいることになる。」これは、「わたしが立っているところに、あなたはちゃんといるか?」という問いかけであり、招きです(安易に「わたしはあなたと共にいる」とは言われません)。一粒のまま、旧態依然としてしまう私を、ご自身の立つところへと導き出そうとされるのです。弟子たちはこの後、主イエスのもとから逃げ出しました。主のおられるところに立つことができなかった。弟子たちの歩み、キリスト者の歩み、教会の歩みは常にそんな失敗を抱えています。けれども、主は何度でも私たちに呼びかけ、私たちの立ち位置を確かめ、終わりまで導こうとされるのです。「わたしの立つところに、あなたはいるか?」。どこまでも謙り、一人一人の命に仕え抜いた、その愛を私たちに示しつつ、あなたもここに立つものとなるようにと、私たちを一粒の麦として遣わされます。わたしたちがそのように生き始めることこそ、十字架を背負われた主イエスが栄光を受ける時なのです。
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