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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
伝道師 野田 祥(のだ しょう)
説教

■通奏低音
主イエスが捕らえられる夜、ゲッセマネの園で祈った時の様子について「石を投げて届くほどのところに離れて、ひざまずいて祈った」というのは、殉教したステファノの出来事(使徒言行録7章)と重なります。「石を投げて届くところ」とは、石を投げつけられるような迫害の只中ということです。もはや誰も助けてくれない、誰からも忘れられてしまったような、もう信仰を無くしてしまいそうな困難の只中で、「あなたのために祈った」と言われる主イエスはあなたを執り成し、踏みとどまっておられるのだというメッセージです。この慰めと希望の通奏低音が今日の箇所にも流れています。

■心の中庭
捕らえられ、大祭司の屋敷へ連行された主イエスの後を、ペトロが追いかけました。屋敷の中庭で焚火に当たっていた人々に紛れ込みました。「中庭」は、臆病と勇敢の中間で動揺するペトロの心理状態にぴったりです。焚火の明かりに浮かび上がるペトロの顔を、じっと見つめる一人の女中が、思い出したように言いました。「この人もイエスと一緒にいた」。必死でシラを切るペトロにとって、経過した1時間はなんと長いものに感じられたでしょう。そして、ついに「しまった」とペトロを追い詰める言葉が告げられました。「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」(59節)。ペトロは自然を装うあまりか、無意識にガリラヤ地方の方言で話したようです(マタイ26:73)。ナザレのイエスの仲間であることは、疑いの余地なし、もうごまかせまいという窮地で、ペトロは三度否定しようとしました。「あなたの言うことは分からない」。そう言葉を発した瞬間、鶏が鳴いたのでした。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出し、慟哭しました。

■主は振り向いてペトロを見つめられた(61節)
ルカによる福音書だけは、この場面に一文を挿入しました。
―主は振り向いてペトロを見つめられた―
主のまなざしを、ペトロ自身は知りません。彼はその場をやり過ごすことに必死です。そして鶏の鳴き声に主イエスの言葉を思い出し、激しく後悔するばかりです。しかし、そんなペトロのことを見つめている主イエスのまなざしをルカ福音書は描いたのです。
福音書の著者は、ペトロの姿に自分自身を重ね合わせているのではないでしょうか。ただ一人、勇気と臆病の狭間(中庭)に置かれ、キリスト者としての自分が問われる経験、そこで自分の持っている信仰という名の覚悟がいかほどのものかが、焚火の灯りに照らされるように明らかにされる経験があったことでしょう。その時、なおも勇ましくイエスを我が主キリストと告白して立ち向えるかと言えば、闇の力に飲み込まれ、悔いて涙するしかない自分であるというありのままの姿を、著者自身が、ペトロの姿において告白しているのではないでしょうか。それは、福音書の著者だけの話ではありません。わたしたち自身を含め、この福音書を読む様々な時代のキリスト者たちの状況が重なるはずです。不信仰の告白がここにはあります。もっと言えば、罪の告白がここにあります。「あなたを知らない」と言うような生き方を繰り返さざるを得ない自分、勇ましい決意が、その日の内に失意となりうる脆さ。しかし、そこにあなたに向けられた主イエスのまなざしがあるのだと、ルカ福音書はその信じる希望を告げています。勇気と臆病の狭間で動揺する「中庭」に、主イエスの揺るがない眼差しが、真っ直ぐ向けられているのです。―主は振り向いてペトロを見つめられた―
主イエスの眼差しを信じ、本当に救われる思いで記された一文ではないでしょうか。その眼差しにこのわたしを覚えてくださっている主がおられる。ただこの事実にこそ、キリスト者としてのあなたの本当の始まり、本当の希望があるのだということが伝えられています。鶏は真夜中に鳴いたのです。「主など知らない」「主などいない」と恐れ、嘆き、後悔する、その最も深い闇において、主の眼差しによって赦され、愛され、生かされる本当の始まりが告げられるのです。

■ただ一人
大祭司の屋敷の中庭でペトロはただ一人です。しかし、本当にただ一人となったのは誰なのかということが暗に語られています。振り向いてペトロを見つめたキリストは、ただ一人十字架への道を進まれました。「あなたはわたしを知らないと言うだろう」そうペトロに告げた後、主イエスは弟子たちにイザヤ書53章の言葉を語られました(22章37節)。すなわち「彼は自らをなげうち、死んで罪人の一人に数えられた(からだ)。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」(イザヤ書53章11節以下)。キリストがただ一人担ってくださった罪と死によって、わたしたちは神の前に赦されました。その時、誰もそのようなことが十字架において成し遂げられたことなど、知らなかったのです。思いもよらなかったのです。「わたしは知らない」「なんのことか、分からない」。なおもその繰り返しのような鈍感で臆病な私たちかもしれません。その私を、主が今日も知ってくださり、わたしがわたしとして生きるただ一つの、そして限りのない道となってくださっています。

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