札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >牧師紹介・説教


牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
伝道師 野田 祥(のだ しょう)
説教

■「久しく待ちにし」
「さぁベツレヘムへ行こう」。躍動する羊飼いたちの姿とは対照的に、シメオンもアンナも、人生における沢山の出会いや別れ、喜びや悲しみを重ね、老いの日々を過ごしていました。しわを重ね、神に祈りつつ晩年を過ごしていたその手に、主イエスは与えられました。
「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」シメオン(25節)、そして、「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々に幼子のことを語った」アンナ(38節)、年老いた二人の姿は、久しく救いを待ち続けてきたイスラエルの民の歴史そのものです。

■「喜ばしい声ひびかせ」
幼子イエスを腕の中に抱き、シメオンは神を讃えます。「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせて下さいます。」
原文を素直に訳せば「今、あなたは、奴隷を解放してくださる」です。シメオンの賛歌は、待ち続けてきた人々の安息と解放の讃美です。
50年目の「ヨベルの年」(レビ記25章)に角笛が鳴り響くと、すべての奴隷が解放され、債務は帳消しにされ、土地はすべて元の所有者に戻されました。これは、神がエジプトで奴隷であった先祖を解放して下さった恵みを思い起こすためであり、またこの土地が、神が導き与えて下さった神のものであることを思い起こすためでした。この50年毎のヨベルの年を数えながら、イスラエルの民は、やがて来るべき真のヨベルの年、永遠の安息と解放の日、救いの日を待ち望んだのです。今、シメオンが幼子イエスを抱きながら捧げた讃美こそ、角笛の響きだったのです。
「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」(ルカ4章16節以下)
救いはシメオンの腕の中だけで終わりません。わたしたちもまたこの福音書を通し、神が与えて下さった主イエスの歩み、その十字架の死と復活の知らせを聴く時、シメオンと同じく神をほめたたえ、主の恵みの年を生きていくものとされています。

■担い、背負い、救い出す
シメオンは幼子を抱き、そこに神に抱かれている自身を見たことでしょう。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じ様に、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、わたしが背負い、わたしが救い出す。」(イザヤ書46章)
神がイスラエルの挫折に満ちた歴史を見捨てることなく、イスラエルのみならず、創られたすべての命を、「担い、背負い、救い出す」と決意された神であるということが、この幼子に現わされています。困った時にだけ現れて助けてくれるような人間の都合で働く「機械仕掛けの神」(ボンヘッファー)ではなく、どうしようもないようなこの現実の只中に立ち、創られた命のために苦悩しながら尽くし、担い、背負い、救い出す神の真実がこの幼子に現れています。久しく待ち続けていた救い、探し続けていた神は、実に、腕の中に抱かれるこの幼子のように、わたしたちのただ中に宿っておられたのだという、変わらぬ揺るがぬ救いがここに見出されます。

■「きよしこの夜」
クリスマスの一連の礼拝が終わった26・27日に、ある方の葬儀を執り行いました。告別式の中で「きよしこの夜」を歌いました。「サイレント・ナイト」はいわば「沈黙の夜」です。どんな言葉も慰めにならず沈黙が支配する悲しみの夜。どんなに叫んでも答えては下さらない神の沈黙に押しつぶされてしまう夜。この讃美歌の美しさの背後には、そんな現実が描かれていると思います。
マリアはシメオンから告げられました。「―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―」(35節)。その言葉通り、主イエスが十字架に死なれた時、母の心は刺し貫かれたのでした。「あなた自身」と呼び掛ける言葉は、私たちにも向けられています。私たちも沈黙の夜を過ごし、予期しない耐えがたい悲しみに心刺し貫かれる日々を生きなければならない時があります。
新年早々、中東では憎しみと暴力とが激しくぶつかり合い世界に緊張が走りました。人の命について「生産性」という歪んだ基準のもと、確信をもって多くの命を殺めた事件についての公判がありました。やるせない憤りを抱く人々の中にも、命の意味を見出せずに苦しんでいる者が多いというやるせない現実があります。まさに今、世に生きる多くの人々がおそるべき沈黙の闇の中で、心刺し貫かれ、救いを待ち続け、探し続けています。「神はどこに?」果てしなく、あてどない問いは、実は「わたしはどこに?」と、失われることのない自分という安息を探し求める問いに他なりません。
「きよしこの夜」は歌います。「救いの御子は、まぶねの中にねむりたもう安らかに。」
シメオンにとっての「まぶね」は幼子を抱いた自分自身の腕です。安らかに眠りたもう幼子を抱くことによって、シメオンもまた安らかに眠りにつくことができたのです。そこではもはや「神はどこに?」「わたしはどこに?」との問いは必要なかったのです。
「神はわたしの中に、わたしは神の中に、今も、そしてとこしえに」。無力な幼子に告げられている言葉なき言葉を、わたしたちは今日、抱きしめ、そしてまた抱きしめられています。

〜 2020年バックナンバー 〜

〜 2019年バックナンバー 〜

お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について