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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
伝道師 野田 祥(のだ しょう)
説教

■わたしの中に飛び込んできなさい
主イエスを求めた二人の盲人。癒された人が二人であったという点が特徴的です。二人は互いにハンディを絆として行動を共にしていたでしょう。不自由や差別に苦しむ中にも、手を伸ばせば、声を掛ければそこにいる相方の存在を励ましとしながら、その日を生きてきたのではないしょうか。主は家の中で、ただこの二人と向き合われました。
「わたしに出来ると信じるのか」。この真っ直ぐな問いに対し、いくら時間を費やして考えても仕方ないでしょう。「信じる」ということは、そこに飛び込んでいくとこから始まるのですから。「自分の中で熟考し納得したから」というのは、結局、自分の考えに基づいているわけで、信じることとは違うでしょう。信じることは、納得すること、あるいは説得することで得られる領域ではないのです。ここでイエス様が二人の盲人におっしゃった「わたしに出来ると信じるのか」という一言も、「わたしの中に飛び込んできなさい」との招きとして受け止めることができます。

■「主は御心なしたまわん」
二人は、主イエスについて噂の範囲でしか知りません。でも大切なことは、いかに主イエスを理解しているかではなく、むしろこの方に覚えられている自分を知るということです。二人にとって、目が治れば主イエスは要済みだったのではなく、実はここからが始まりでした。癒された彼らは、本当の意味で自分たちが願っていたことを知ったのではないでしょうか。自分たちにはこの方との出会いが必要だったのだと。
讃美歌463番の歌詞は、「わがゆく道、いついかになるべきかはつゆしらねど、主はみこころなしたまわん」。信仰の生活というのは、いつもこの告白から始まっていくのです。いや、この告白からしか始まらない、そう言って良いと思います。「主は御心なしたまわん」。主が導いて下さる道、示して下さる道をわたしは生かされていこう。先が分からない不安や疑い、納得できないもどかしさ、あやふやな思いを多分に抱える自分でありながらも、それらすべてをご存知の方が、その御心をなしてくださる。その信頼を日毎、週毎に、月毎に新たにしながら、一日を生きていくのです。

■二人共に〜ぶどうの木礼拝〜
「はい、主よ」と答えたのは、一人ではありません。二人で共に答えたのです。ここに教会の姿というものを考えてみることができます。親子・夫婦・兄弟・姉妹など近しい方と礼拝に集うことができることは感謝すべき恵みです。しかし更に、わたしたちはそうした関係を超えてここに集められています。互いに主にあって大切な相方として集められているのです。一人で主イエスに出会っているのではなく、「この人と共に」と言うべき礼拝であるということもまた忘れてはならないことです。ここで共に主に祈り、歌い、御言葉に触れ、「主はその御心をなされる」との信頼を互いに新たにして生きていくのです。自分一人だけの証言ではなく、「わたしが受けた恵みは、あなたもまた受けている恵みである」と互いに確かめ合うものとして集められているのです。

■エマオの二人の弟子もまた
エルサレムから遠ざかり、エマオの村へと向かう二人の弟子に、復活の主イエスが現れたことを思い起こします(ルカ24章)。一緒に歩いているその人が主イエスであることに気付かなかった二人とは、実にわたしたち自身の姿でしょう。それほどまで落胆や後悔や不安が溢れているのです。夕食の席で主イエスがパンを裂かれたその瞬間、二人の目は開かれ、主イエスだと気付きました。気づいた瞬間、主の姿はもはやなかった。それは二人が目で見る以上に確かな事実を知ったということです。主がわたしの今日を共に生きておられる、わたしに語りかけながら歩き、わたしにパンを与え、なにより自分自身を裂いて与えて下さる、その愛に捕らえられていることを知ったのです。

■相方
手を伸ばせばそこに彼がいる、声を掛ければ彼の返答がある、そうして互いを励ましとし、相方として生きてきた二人の盲人もこの時、知ったのです。主イエスこの方こそが、そのような相方としておられるということ、そしてこの方の手、この方の声こそが、わたしを必要な相方として求め、とらえているのだということを。
今日、この場所は、二人の盲人がその目を癒されたあの家です。あるいはエマオの村で二人の弟子の目が開かれたあの家です。私のために命を捨て、私のために復活して生きておられる主の愛、本当に自分の命が望みとするキリストその方の手が、声があります。

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