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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
説教

■言は肉となった
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ福音書1:14)。復活節のこの時にこそ一層味わい深い言葉ではないでしょうか。復活の主イエスは、弟子たちの真ん中に立って手と脇腹の傷をお見せになりました。そして彼らに「平和があるように」と告げたのです。それは、未来への願望の言葉ではありません。「平和があるように」と告げた復活の主イエスこの方において、この言葉は肉となっている、現実となっているのです。部屋に閉じこもっていた弟子たちにとって、ここは恐れや失望が支配する場所なのではなく、主ご自身が真ん中に生きておられる現実なのだという平和が示されたのです。
わたしたちが聖書を開き、主の言葉を聴くということ、それは人生について示唆を頂く以上のことです。聖書を通して主の言葉が告げられる時、言は肉となってわたしたちの只中にあるということ、復活の主にあってわたしが生きているのだというまことの平和が確かめられるということです。ただここからのみ、わたしたちの歩みは始まっていくのです。
今日示されている聖書の箇所についても、わたしたちはこの言葉を、十字架で死んでいなくなってしまった方の「過去の言葉」「終わった言葉」として聴くのではありません。この言葉を聴く今日、復活の主がわたしたちの只中に立っておられる現実にわたしたちは直面しているのです。

■体現〜キリストの体としての教会〜
教会は単なる人々の交流の場ではなく、そこで主の言葉が告げられ、主の愛と赦しが信じられ、互いにこの恵みに生かされる時、そこで言は肉となるのです。復活のキリストご自身がこの交わりにおいて「体現」されるのです。主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15:5)と言われました。ぶどうの木と枝が一体のものであるように、わたしたちにおいてキリストが体現され、証しされるのです。言は肉となってわたしたちの間に宿っているという事実表されるのです。そうであるならば、キリストの体である教会は、主ご自身がそうであったように世の無理解に直面し、迫害を受けるのは、実は必然なのです。
ここで主イエスは教会が受ける迫害について話されました。ですが、それは「やがてこういうことが起こりますよ」という警告であるとか、「わたしの言葉を思い出して頑張りなさいよ」というエールではありません。そうではなく「あなたがたが、苦難の中で聖霊によってわたしの言葉を思い起こす時、わたしはあなたがたの只中に生きて働いているのだ、死をも妨げとしない愛の内にあなたがたを導くのだ」ということを告げておられるのです。そして16章の終わりに至って主イエスは宣言されます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)。これは十字架に死んで敗北していく方の言葉ではなく、迫害と死をも妨げとせず、「わたしはあなたのただ中にあってすべてを導く」と告げる、復活の主の宣言です。

■今こそ問われている教会
新型コロナウィルスの感染拡大という状況が続いています。これは確かに苦難ではあっても、決して今日の箇所でいわれるような迫害という類いのものではありません。しかし、教会は今、迫害を受けるのと同様に、その存在を根本的に問われているのではないでしょうか。わたしたちがキリストの体であるというその実が問われている時ではないでしょうか。もしも、世にあって教会という存在が、理解されないということ以前に、まったく忘れられ、思い出されることもないとしたら、それは迫害を受けることよりも深刻なことかもしれません。
「主は我らと共にいましたもう」。その言葉は真実であり大きな慰めです。しかし、これは現状を良しとしてくれる便利な言葉ではありません。主が共におられるということ、それは、私たちが主の体として主の愛を生きていく、主の愛を体現していくということと一つです。今、著しく教会の活動が制限されていると思わされています。「沢山人が集まってはいけない」「一緒に食事してはいけない」。自粛が当たり前になってきて、「あれもできない」「これもできない」「いまは無理だ」「状況が落ち着いてからにしよう」。そんな思いが当たり前になってしまいそうになる。しかし「わたしに従いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:19)、そう告げられた方はどのような方であったか。「なにもできない」という限界の極み、不可能の極みである死を越えてわたしたちの只中に生きて働かれる方です。

■わたしに従いなさい
復活の主イエスがガリラヤ湖の岸辺でパンと魚を差し出して下さった時、ペトロはきっとあの5千人の給食の出来事を思い起こしたことでしょう。こんな僅かなものが何の役に立つだろうか、そう思われた僅かなパンから始まる喜びがある。主の御業があるのです。「何もできない、何にもならない」その不可能を超えて繰り広げられる復活の主の愛をあなたが生きていきなさい、そう告げられています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。そう告げる主が、今日言われるのです。「あなたはわたしに従いなさい」。そんなわたしたちにもパンが、主の愛が、主の命が差しだされています。

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