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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
伝道師 野田 祥(のだ しょう)
説教

■真の神にして、真の人間イエス
ギリシア人のある母親が、悪霊に取りつかれた娘を助けて欲しいと主イエスにひれ伏して懇願しました。ところが、主イエスは疲れを覚えていたのか、今は誰とも接したくない、何もしたくない、そんな様子でありました。娘のために必死の彼女に対し、あまりにも冷淡な態度と言葉です。ところが、この母親は引き下がらずに言うのです。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます」。「犬呼ばわりされようと結構です、しかしその犬も、おこぼれは食べるのです」と。「主よ」との呼び掛けに、ただ怒りだけではない「この思いよ届け、通じよ」との主イエスに対する信頼が込められています。この訴えは主イエスの心を揺さぶりました。疲れを覚え、無気力にさえなっていた主イエスの心が、彼女の叫びと訴えによって開かれたのです。一体自分が誰のために、何のために世に遣わされているのか、神の御心を痛切に知らされたそういう出来事です。31節以下で耳が聴こえず、舌が回らない人が癒されるという話に続くわけですが、その前に主イエス自身の耳が、口が、心が開かれた、癒されたと言って良いと思います。
この箇所には「誰でも粘り強く願い信頼し続けるならば神様は必ず答えて下さるのだ」という教訓だけが語られているのでしょうか?もっと重要なことが語られています。すなわち、主イエスがわたしたちと同じ、世に生きる一人の人間であったのだということだということです。疲れもすれば、無気力にもなり、他者との出会いの中で自分自身を知っていった一人の真の人間なのだということです。主イエスには、神ご自身がこよなく現れていると同時に、わたしたち人間の現実もまた、こよなく現れているのです。悩みや渇き、恐れや疲れや絶望を抱く人間として。

■母の叫びと、十字架上のイエスの叫び
このことは、十字架上で最も明瞭です。「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てたのですか」。その叫びと訴えは、娘の死の危機に直面したこの母親の心境と重なります。自分では娘をどうしてやることもできない苦しみ、「なぜ!」「どうして!」という恐怖の中で、母親は主イエスに助けを求めましたが、最初は冷淡な言葉しか与えられなかったのです。突き落とされるような思いだったでしょう。そのような絶望は、今日もこの世界には溢れ、わたしたちの身近にもありましょう。そして主イエスもまたこの絶望を、一人の人間として十字架で味わい、叫んだのです。どんなに叫び訴えても、天は何も答えてくれない恐れのなか死なれたのです。
しかし、神はそのイエスを死から復活させました。これが神の世人に対して「わたしは決してあなたを見捨てはしないのだ」と告げる完全明瞭な返答です。一人の人間としてのイエスの死と復活の出来事、ここにわたしたち人間の叫びそのものがあり、また希望そのものがあるのです。主イエスが真の人であったから、神がわたしたちと同じ人間となられたからこそ示された希望です。

■聴くべき希望、歌うべき希望
元号が代わろうと、世がどんな美しい言葉で飾られようと、わたしたちの生きている現実は不条理で満ちています。答えの見えない、決して理由を説明できない現実があり、呻きがあります。生きるとはどうしてこんなに苦しいのかと、うずくまって耳を塞ぎ、口を閉ざす現実があります。その中で、主イエスの復活に現わされた「わたしはあなたを見捨てない」との神の愛の真実を、わたしたち皆が聴く必要があるのです。この希望を胸に神を賛美して生きる必要があるのです。そして神は伝えずにおれないのです。本当に聴くべき希望に耳を開き、本当に語るべき喜びを語って生きる者となるためにこそ、主は、今日わたしたちをこの礼拝へと招き、出会い、その耳と口に触れて癒そうとされるのです。

■「エッファタ」が聴こえるか
主イエスは耳が聴こえず、舌の回らないこの人を群衆の中から連れ出し、一対一で向き合いました。そして「エッファタ(開け)」と言われた。「この思いよ、通じよ!」というのです。「治れ」ではなく「開け」です。これはただ単に耳と口の機能が回復された出来事ではありません。「開け」と告げる主イエスの深い息によって解き開かれたのは、神に愛され祝福された者としての命です。大きな石で閉ざされていた命が開かれたのです。人生において本当に聴くべき神の愛を聴き、本当に語るべき神への賛美を口にすることができた、そのような新しい命への「エッファタ」なのです。
福音書の著者は、主イエスがアラム語で告げたそのままの発音で「エッファタ」と記しています。主イエスの「肉声」が、生きた言葉としてあなたに届くことを願ったのかもしれません。ところで、主イエスは群衆の中から彼一人を連れ出したのですから、誰も「エッファタ」を聴いたはずがありません。誰にも聴こえなかったはずのその声を、今あなたが聴いているのは、あなた自身が主によって、耳を、命を開かれているからです。

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