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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
説教

◆イエスがいない
降誕物語とそれから30年後の公生涯を橋渡しする箇所です。12歳の少年イエスは両親と共にエルサレムに巡礼に出掛けました。1週間に亘る過越祭が終わり、ナザレへの帰路に就きました。イエスがどこにもいないことを知った両親はエルサレムへと引き返して捜索しましたが、一向に見つかりません。行方不明から丸三日が経過しました。“3”という数字は、その出来事が「決定的」であることを意味します。両親はイエスの決定的な不在に直面したのです。
イエスは、神殿の境内で学者たちの真ん中に座って議論していました。母マリアが「なぜこんなことをしてくれたのです。お父さんもわたしも心配して探していたのです」(48節)と言ったのは当然でしょう。マリアからすれば、イエスはまだ12歳、自分の手の中にあるべき存在なのです。ところが、イエスは母に一言謝るわけでもなく、こんな言葉で言い返したのです。「どうしてわたしを捜したのです。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49節)。両親には、息子イエスの言葉を理解できませんでした。この日、両親は、それまで自分たちの手の中にあるはずと思っていた息子イエスは、もはや存在しないこと、イエスのことが分からないという経験をしました。ルカによる福音書は、イエスがマリアとヨセフの子である以前に、天の父なる神の子であり、人間の見当や都合を超越した存在であるということを物語っています。

◆すべて心に納めて
そのような不可解な出来事の後、家族は再びナザレでの生活を送り十数年が経過していきます。母マリアは、我が子の成長を見守りつつ、すべてのことを心に納めて過ごしました。飼い葉桶に眠るイエスを見つめるマリアも、12歳のイエスを見つめるマリアも、「すべてを心に納めていた」と書かれているのが印象的です(2:19)。すべての出来事に、自分たちの思いを越えた神の御業、導きが働いているということを信じて、一つ一つの出来事を大切に心に刻みながら過ごしたということでしょう。これら一つ一つの出来事がやがてどこに結実していくのか、神がこの子をどのように用いられるのか、自分にはまだ分からない。分からないからこそ、事の起きた時にその意味を捉えられるように、今この時、この時をしかと心に焼き付けてしまっておくのです。
その意味で、マリアの“アドヴェント”は、まだ終わっていないのです。イエスは生まれ、ここまで成長の過程を踏んできました。しかし、この後、イエスが人々の前に現れて神の国を宣べ伝え、十字架に掛けられ、しかし三日目に復活する、昇天後、聖霊が降り、教会が誕生していく、ユダヤ人にも異邦人にも救いの恵みが広がっていく、そうした出来事の数々をマリアはまだ何も見ていないのです。でも、その萌芽を見つめ、ここに既に始まっている神の業を心に納めて過ごしたのです。目の前の喜びも悲しみも不可解な出来事も一つ一つを静かに深く心に納めていく、このマリアの姿に、わたしたちの信仰生活の模範があるでしょう。マリアの姿が証ししているのでは、神様の業は、決して「点」ではないということです。神様の働きは、決してその時だけの思い付きで、きまぐれのような「点」ではなく、紡ぎ出される「線」となり「面」となっていくということです。そのように神は私たちの思い至らぬところにおいても、日々その真実をもって納め、導いておられる。すべてを心に納めるマリアの姿とは、それこそ、わたしたちの人生の日々すべてを心に納め、その愛によってここからを紡ぎ出して下さる神様の愛を映し出していると言えます。

◆神様の御手の中で
“瞬きの詩人”こと水野源三さんの詩を二つ紹介します。
「生きる」
神様の大きな御手の中で、
かたつむりはかたつむりらしく歩み、
蛍草は蛍草らしく咲き、
雨蛙は雨蛙らしく鳴き、
神様の大きな御手の中で
私は私らしく生きる

「そうではない」
歩むのは私ひとり そうではない そうではない
私の弱さを知っておられる
主イエスが共に歩みたもう
悩むのは私ひとり そうではない そうではない
私の弱さを知っておられる
主イエスが共に悩みたもう
祈るのは私ひとり そうではない そうではない
私の願いを知っておられる
主イエスが共に祈りたもう

すべてが神様の大きな御手の中にあり、そこでこそこのわたしがわたしとして肯定され愛され満たされていることに命と人生の美しさ尊さを見つめる詩です。また、「歩むのは私一人、悩むのは私一人、祈るのは私一人」と虚しさや悲哀を覚えてしまう時こそ、「そうではない、そうではない」と気づかされ、まさにそこで主が共に歩み、悩み、祈っておられる恵みを見つめる信仰の営みが歌われています。主の年2026年の一日一日も、神の御手の中でわたしが生かされており、主イエスがこのわたしを担い、背負い、あるいは傍らに立ち歩いてくださっていることに繰り返し気づかされ、そこにある一つ一つのことを深く心に納めて過ごしたいと思います。まだ見ぬ明日に主の真実な眼差しと御声の導きを信じ、それが点から線へ、そして面のように紡ぎ出されていくことを見つめ、待ち望みながら生きていきましょう。その意味で信仰生活はその全体を通してアドヴェントなのです。

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