札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子



>札幌北光教会/トップ >牧師紹介・説教


◆すべての民のために
天使は羊飼いたちに告げます。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。救い主がすべての民のためにお生まれになったというメッセージは、夜もすがら羊の世話をして暮らす名もなき羊飼いにおいて語られています。夜の闇に包まれた彼らを、主の栄光が照らし出すという圧倒的な光景は、誰一人、主イエスの降誕の恵みから除外されるものはいないことを物語っています。
◆主の言葉の実現
ルカは、主イエスがローマ皇帝の支配という歴史の只中にこそ誕生したことを物語ります。住民登録の勅令に従い、ベツレヘムに辿り着いた時、彼らの居場所はありませんでした。そこで待ったなしのお産が始まってしまうのです。被支配者の境遇を思い知らされる出来事であったでしょう。しかし、マリアはこの境遇を嘆いたのではなく、「これらの出来事すべてを心に納めて、思い巡らし」(19節)ました。あの受胎告知の日から今この時まで、すべてが思いがけない出来事でありました。疑い、戸惑い、不安を繰り返し、世の力に翻弄された悩ましい日々だった。けれどもそうこうして天使が告げた主の言葉は、飼い葉桶の中で現実のものとなっているのです。マリアは、ただその事実を深く受け止めました。飼い葉桶、それは何があろうと必ず救い主を世に与えるとの神の決断の堅さを表しています。飼い葉桶の乳飲み子こそ、「あなたがたへのしるし」(これがあなたがたすべての命に対するわたしの愛の証しだ!)と言われるのです。
◆飼い葉桶と十字架
ここに始まった主イエスの歩みは如何なるものであったか。乳飲み子の産声は、十字架上の叫びにつながっていました。飼い葉桶と十字架、主イエスの地上の生涯における最初と最後に象徴されているものは「排除」の二文字です。排除され、居場所がなく、飼い葉おけに生まれたイエス、その存在を否定され、呪われ、十字架の死へと押しやられたイエス、この排除のただ中にこそ神はその愛を表わされたのです。
先週、こんな電話がありました。「神がいるなら、なぜ戦争を終わらせてくれないのか」「神が愛の神、全能の神ならば、なぜこの寒さの中過ごしている人を今すぐ助けてやらないのか」「なぜ神は傍観者でいるのか」畳みかけるようにして問いかけるその声は、怒りと嘆きに満ちていました。クリスマスが近づくこの時だからこそ余計にそのようなやりきれない思いが満ち溢れたのでしょう。それは率直な問いであり、しかし、そこには神を試している心もありました。思えば、兵士たちは十字架上の主イエスを試しました。「お前が神の子ならば今すぐ天使に頼んでそこから降ろしてもらえ。他人は救っても、自分は救えないのか」。主イエスは十字架で「我が神、我が神、なぜお見捨てになったのですか」叫び、無力にも死なれました。それがあの日、天使の大集団が賛美した救い主の最期なのです。この憐れ極まりない姿のどこに希望が、どんな救いがあるというのでしょうか。
◆この身と心を主のまぶねとし
十字架上の叫び、それは、この世で絶望する人々を代表する叫びです。「なぜなのか」との恐れ、嘆き、怒り、そんな無数の神への訴えが、十字架のイエスにおいてこそ叫ばれているのです。その叫びは、結局、墓の中に閉じ込められてしまったでしょうか。復活!そこにこそ神の答えがあり、この世に示された救いがあります。神は、イエスの死と復活を通し「わたしはあなたを見捨てない」「死も嘆きもわたしの愛からあなたを引き離すことはできない」ということを世に示されました。そして、この愛が単に口だけのまやかしなどではなく、今日もわたしたちのただ中に生きて働いている事実であることの証しとして、神はキリストに従い、キリストと共に歩もうと志す人々を用いて働かれます。キリスト者であるということ、キリスト者として生きるということ、それは私達が選び取ったことではなく、主が選び取られたことです。私たちもマリアのように、ある時、思いがけず主イエスをその身に宿すものとされた一人ひとりです。そうして主はこのわたしを用いてその御業を表わされます。たとえそこが飼い葉桶のように貧しく、土の器のように欠けあるものでも。
◆はじまり
「神がいるなら、なぜ何もしてくれないのか、なぜ傍観者でいるのか」、その嘆き、その訴えに対し、わたしたち自身が主の愛を宿す飼い葉おけとして証ししなければならないのです。主のものとされた私たちは、自分だけを愛そうとする利己心に己を譲り渡してはならないのです。その意味で、クリスマスとは、主を宿し、神の愛を身をもって証ししていこうとする私たちの歩みの始まりであって、“一年の締めくくり”ではありません。
ルカ福音書は、天使たちの轟く賛美の後に、羊飼いたちの賛美をそっと記しています。彼らは賛美しながら生活の場へと帰っていきました。その後の彼らのことは誰も何も知りません。しかし、その心の内に主の到来の喜びがあり、神の愛を携えて彼らは新たに生き始めたに違いありません。独り子を与えるほど世をこのわたしを愛してくださった神の愛を信じ喜び、この愛に押し出されて、わたしたちもまた、ここから、すべての人へのしるしである主イエスを証していく羊飼いとして生きていくのです。
〜 2025年バックナンバー 〜
〜 2024年バックナンバー 〜