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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
説教

◆マリアの不安
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。そう天使に答えたマリアについて「信仰者の鏡」のように語られる節があります。果たしてマリアはこの時、本当に天使の言葉を信じたのでしょうか。この後、マリアは急ぎ親類のエリサベトを訪ねました。天使の言葉が本当ならば、エリサベトは妊娠して6カ月経っているはずで、それをこの目で確かめねばならない、そうでなければ信じられないと思ったのです。マリアの足取りは重かったことでしょう。天使の言葉が本当だったならば、妊娠の事実をヨセフに何と説明すれば良いか、これが公になれば姦淫の罪に問われるのではないか。そう思うと、天使の言葉は単なる夢であって欲しいとさえ思ったかもしれません。

◆祝福するエリサベト
エリサベトは、突然のマリアの訪問を何事かと思ったでしょう。エリサベトは、マリアの状況をまだ知らないのです。ところが、マリアの挨拶を受けた時、エリサベトの胎内の子が躍り上がった。それを体感したエリサベトは、マリアの妊娠と、その子こそ主であることを悟りました。そこでエリサベトは、不安の中にいたマリアを祝福したのです。「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にした時、胎内の子は喜んで踊りました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。これはエリサベトだからこそ語れた祝福です。他の人ならば、結婚前に妊娠したマリアを否定し、祝福ではなく呪いの言葉をぶつけたかもしれません。この時、エリサベトは「聖霊に満たされて」語りました。聖霊は、不安と恐れの中にいるマリアに必要な言葉として、エリサベトを通して祝福を告げたのです。その祝福によってマリアは肯定されたのです。そして、マリアは、エリサベトの妊娠の事実を知り、また彼女から祝福を受けたことでによって、神がこの自分という小さな者をも用いて、その御業を表わそうとされているということを信じ、ようやく「お言葉通りこの身になりますように」と受け止めることができたのです。

◆邂逅
エリサベトとマリアは単に親戚として会ったのではなく、互いに主の御業のために選ばれ用いられた者として、主の約束をその身に宿す者同士として出会ったのです。マリアもエリサベトもお互いの存在にどんなにか励まされたことでしょう。「これは自分一人で秘かに背負っていかなければならない使命ではないのだ」と。このように思いを理解し、祝福し、励ましあって共に歩む者が与えられていることを知りました。これは、互いが主によって引き合わされた“邂逅”と呼ぶに相応しい出会いです。
この物語を読む時に、わたしたちが教会で互いに集い、出会っていること、ここにも“邂逅”と呼ぶに相応しい、思いがけない主の導きがあるということを見つめたいと思うのです。私たちもまた、エリサベトやマリアと同じく、主の言葉(主の約束)を内に秘めている一人ひとりです。神はこのわたしに目を留め、このわたしを選び用いてその愛の御業を表わそうとされています。しかし、そのようなことを聞かされても「本当だろうか?」と怪しみ、戸惑うことでしょう。マリアのように「どうして、そのようなことがありえましょうか」と。そこで、私たちは互いにマリアとエリサベトのように出会わされているのです。
マリアが不安の中、山里に向かっていったように、わたしたちが教会に来る足取りというのは、必ずしも軽やかなものではなく、生きる不安や悩み、わだかまりを抱えていることもあるでしょう。将来のこと、家族のこと、仕事のこと、病気のこと、人間関係のことで、一体どうなってしまうのだろうと。あるいは、現状に対する不満や苛立ちで心が囚われているということもあるでしょう。そこで私たちは聖霊によって出会わされています。礼拝を通して、互いに主にあって挨拶を交わし、呪いではなく祝福を、冷たく固い石の心ではなく柔らかく温かい肉の心で向き合うのです。共に主に見いだされ用いられている者であることを喜び、励まし、共に賛美し祈りあうのです。そうしてわたしたちは主に生かされ導かれていることを信じ受け止め、主に自分を明け渡して、また立ち上がっていく、そこに主の約束はあらわされていくのです。
それは教会の中だけの話ではありません。私たちはそれぞれの場へ遣わされていきます。そこにある出会い一つひとつが、実は主によって出会わされている思いがけない「邂逅」なのだということを心に留めたいと思うのです。呪いの言葉で満ちあふれるこの社会の中で、わたしたちは一人の命に祝福を祈るために遣わされていくのです。そこに主の御業は表わされることを待ち望みつつ過ごすアドヴェントとしましょう。

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