札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子



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◆忘れられない一言
いつまでも心の中に残り続け、その人を慰め、励まし、支える言葉というのは、往々にして、意識的に熱っぽく語られたメッセージよりも、何気ない言葉、言った本人さえ忘れてしまっているような一言であったり、ごく瞬間的なその人の眼差し、さりげない振る舞いであったりするものです。この箇所は、そのような忘れることのできないイエスの一言、その振る舞いが深く記憶された箇所であると言えるでしょう。
耳が聞こえず舌の回らない人が、人々によってイエスのもとに連れて来られました。主イエスは、この人だけを群衆の中から連れ出した、すなわち一対一で向き合いました。主イエスは指をこの人の両耳に差し込み、唾をつけてその舌に触れ、天を仰いで、深く息をつき、そして「エッファタ(開け)」とその人に向かって告げました。この箇所で主イエスの発している言葉は、「エッファタ」、たったこの一言だけであるとお気づきになると思います。マルコ福音書は、「エッファタ」というアラム語の発音を、そのままギリシャ語のアルファベットで記し、その後に「これは『開け』という意味である」と解説をしています。つまり、イエスが「エッファタ」とその人に告げられた、そのたった一言、その声、肉声が、忘れることのできない記憶として記されているのです。あるいは両耳と舌に触れたイエスの指、天を仰ぎ深くついた息もまた同様です。
◆イエスの呻き
癒されたこの人は、デカポリス地方の人間、つまりユダヤ人から見れば外国人であったことでしょう。ユダヤ人から見れば、彼ら異邦人とは、唯一まことの神を知らず、偶像を崇拝する者であり、律法も持たず、割礼もない神の民から除外された者たち、言ってしまえはその存在まるごとが罪なのであり、あるいは彼らが住む土地まるごとが汚れているとみなされていたのです。従って、ユダヤ人は異邦人との交流、ましてや体に障害のある者との交流は、忌むべき汚れがうつることに他ならなかった。しかし、イエスはそのそびえ立つ隔てを全くスルーして、この人と相対し、この人が障害のゆえに負わされて来たであろう苦悩に触れた。それはこの人もまた神の愛の中で生かされている一人に他ならないからです。主イエスは、人間が持ち出すどんな理屈にも関わらず、その厳然たる事実を認めてこの人に向き合うのです。神の愛、それがすべての命の前提、否、命そのものなのです。
主イエスは、「天を仰いで、深く息をついた」のでした。「天を仰いだ」。これは5千人の給食の場面で主イエスが天を仰いで賛美の祈りを唱えて、パンを裂いた場面と重なるものがあります。命の源、恵みの源である神を仰いだ、そして「深く息をついた」のです。それは深呼吸して精神を集中させたという意味ではないでしょう。この言葉(ステナゾー)は直訳すれば「呻く」「嘆息する」という意味です。主イエスはここで天を仰ぎ、この人の負わされてきた苦悩に触れ、何重もの隔てに閉ざされた現実を痛感して呻くのです。それはこの人に対してだけではないでしょう。イエスが、村々で一人ひとりに向き合われたということは、きっとそういうことなのです。
◆新しい命への「エッファタ」
そして、その呻きの中から、主イエスは「エッファタ (開け)」と告げました。「治れ」と告げたのではなく「開け」です。単なる身体的機能の治癒ということに留まらず、何よりも、この人を神に創られ、神に愛された存在として「解放・開放」する宣言として聴くことができます。深く呻きつつ、しかし、創り主である神への信頼をもって仰ぐ、それによって、いわば大きな石で閉ざされていた命が新しい、本来の命として開かれていった、そして、この人が自分の人生の中で聴くべき神の愛を聴くものとされ、語るべき神への信頼と賛美を口にするものとされていった、そのような新しい命への「エッファタ」なのです。
◆教会への「エッファタ」
わたしたちは、この主イエスの言葉を私たち自身の内に聴く一人ひとりです。主がこうして差し向かいで立っていてくださる。このわたしの存在を尊び、神の子として生きるように、聴くべき神の愛を聴き、語るべき賛美を語る者とするために、この場所へと連れ出してくださっているのだと。しかし、それで終わりではありません。「開かれる」ことは、それが目的の完了ではなく、文字通り「開始」を意味するのです。すなわち、この私たち自身がキリストの指、キリストの言葉として、ここから遣わされていく者であるという視点を忘れてはなりません。「教会はキリストの体である」「地域に開かれた教会」と申しますが、これを口で語るだけで終わらせるならば、それは幻想でしかないのだろうと思います。神が受肉して、まことの人として生きられ、隔絶を越えて人間の只中に生き、死なれ、そして復活されたように、私たちの信仰が、他者と共に生きる生活の只中において本当に受肉したものとなること、そのために今日もキリストは私たちに、教会に対して、呻きつつ、「エッファタ!」と告げておられるのです。
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