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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
説教

1. パウロは人間を器に例えた。ローマ9:22では人間を「怒りの器」、同23では「憐れみの器」に例え、さらに第二コリント4:7では「土の器」に人間の身体を例えた。人間を器に例えてパウロが言わんとした意味は二つあることが分かる。第一は、弱い存在としての人間という意味。人間のたやすく壊れやすい有様をパウロは器と言い表した。第二は、神の恵みを宿す人間という意味での器。まことに壊れやすいが、それが同時に神の御用のために用いられる器、つまり脆いが恵みを宿す器。それが人間であるとパウロは語った。このパウロの「器の人間観」が第一テサロニケ4章4節を読みとる基になる。

2. 新共同訳聖書は4節を次のように訳した。「おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず」。つまり「妻と生活する」夫向けの話しであって、「器」の話しは出てこない。これはパウロの「器の人間観」とは関りがないように見える。そこで、先ず、新共同訳の4節は誤訳と思える点を指摘して、訳文を見直しておきたい。「妻」と訳したギリシャ語「スケウオス(skeuos)」は、二つの意味があった。一つは「妻」、もう一つは「器」という意味。「妻」の方を採れば新共同訳の方になる。

3. 「妻」という訳は、新共同訳や戦前の文誤訳などに見られる。新共同訳の場合、「妻」を採用した理由は、Today’s English Versionという英語聖書の「to live with his wife」を頼りにしてそのまま引き写したからだろう。パウロのギリシャ語には「to live=生活する」に当たる単語はないのに、新共同訳は「生活する」という表現まで丸写しにした。もっとも、器が妻を意味する場合が、まったくないのではない。古代ユダヤ教のラビ文献では、妻は男にとって器のようなものに過ぎないという女性蔑視の表現があった。パウロに家父長主義の一面があったのは確かだが、ラビの差別意識と同列と言うのは行き過ぎだ。いずれにしても、妻という訳語を採ると、この箇所は男の性的倫理の話しで終わる。男女を含む広がりで人間を語るパウロの「器の人間観」を見落とす。

4. 的確なのは「器」という訳であろう。従って4節は新共同訳の訳を離れて「器」の訳に従いたい。「自分自身の器(あるいは、身体)を聖化と尊厳において保ち」。このように訳してこそ、パウロのメッセージを深く読み取る道が開けるだろう。ちなみに、新共同訳以外の主な現代の日本語訳聖書では、4節を「器」あるいは「身体」と訳す。4節〜8節の幾つかの和訳を別紙に示した。とくに2018年訳の二つを参照してパウロのからのメッセージを探ってみよう。

5. 「自分の体」あるいは「自分自身の器」につきパウロは「聖化と尊厳において保て」と勧めた。「聖化(hagiasmo)」とは、神が人間を聖くするという意味。さらに「聖くする」の原意は、ある目的のために他と区別することだ。つまり、神が人間を、そのご意志によって、ある目的や働きのために誰それと名指しでその人を個別に用いることだ。私たちの側から見れば、ある目的や働きを他の人ではなく、この自分に示された神の御心と受けとめて、それに応えて担うことになる。

6. さらに、「尊厳(time)」もまた、ここではヘブライ宗教の伝統に立った意味である。人間が神によって創られた者としてお互いの中に認め合う、侵してはならない価値だと言える。パウロが土の器としての人間が、同時に神の恵みの器でもあると言う時、そこには神によって与えられた人間の尊厳を見ていた。こうして、パウロは「自分自身の器を聖化と尊厳において保て」と促した。神は私たち一人一人を用いられる。神によって尊厳ある存在とされた自分にプライドを持って、その姿勢を貫いて生きよう。そのようなパウロのメッセージがここに響いている。

7. ところで、パウロは4節のメッセージを、ローマ帝国都市テサロニケの場末の地域に生きたキリスト者たちに送った。このメッセージを受けた教会の仲間たちは、当時、無学な卑しい連中と教会外から蔑視された。二世紀のキリスト教徒について、ケルソスという知識人は、キリスト教徒は奴隷や洗濯女や皮革職人など、教養のない下層階級なのに偉そうなことをいうと批判した。これはパウロの時代から既にそう見られていた。キリスト教徒はその社会的境遇を理由に自分自身に人間としての価値を見いだすことを妨げられていた。その貧しさや厳しい境遇からローマ都市生活の中で堕落する誘惑にも晒されていただろう。そういう仲間の境遇を踏まえてパウロは語った。世に蔑まれようとも自分という器を大切にせよ。あなたたちは神のご用に用いられる器なのだから。あなたは侵害されてはならない尊厳ある人間なのだ。誇りをもって生きよ。その意味で生きる姿勢を変えるな。ここには明らかに紀元一世紀の人間解放の響きを聞き取ることができる。

8. ただし、パウロはユダヤ人として養われた厳格な禁欲主義的な人でもあった。彼には、女性に対する家父長的優越観とか同性愛者への嫌悪などが染みついていたのも事実。その偏狭な性的な考えで、彼が思いこむ性的な逸脱から自分を遠ざけることが、自分の器を保つことの具体的な生活だと考えていた側面もある。しかし、イエスの教えに照らすなら、女性に対する家父長的な観念や同性愛者への嫌悪など、パウロの限界も明らかだ。その意味で、パウロは4節の言葉を語りながら、そのメッセージと矛盾する考えも抱いていた。神の与える聖化と尊厳は、女性を男性より低く扱う差別的な恵みではない。同性愛者を排除する矮小な恵みでもない。この意味で、4節のメッセージはパウロ自身の矛盾を越えていく徹底した人間解放の福音のメッセージだったと言わねばならない。

9. 私たちはテサロニケ教会の先達とは歴史の時を隔て、かなり異質な社会や境遇を生きている。私はパウロの限界を指摘したが、私たち自身の限界にも謙虚に自覚を深めたい。パウロが語りかけた古代ローマ都市の貧しい人々と、今日の自分自身の社会層の違いを度外視してしまうと、私たちは、福音のもつ奥深さを、頭でしか受け取れないで終わる。パウロのメッセージが貧しい者には勇気を与え、それなりに保証を得た階層の人々には何を反省させたのか。恵みへの感謝は勿論の事だろう。それと共に、マタイ25:40「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである」とのイエスの言葉。最も小さくされている人の隣人たれとの挑戦が、私たちに向けられているのではないだろうか。

12.その上でなお、私たちは、神が御用に用いる器、かけがえのない命とされた器として生きるように促されている。そうは言っても、私たちは自分が脆い土の器であるとの自覚を忘れないという意味で、あえて、説教題の「土器」に「かわらけ」というルビを振った。「かわらけ」も土器には違いない。ただし「かわらけ」はまだ釉(うわぐすり)がかけられていない素焼きの土器だ。私たちは、土器は土器でも、もともとは素焼きの土器だろう。その素焼きの土器に釉を装ってくださるのは神ご自身。この真実を心に刻んで、奢ることなく「かわらけ」の自分を神に開いて生活していきたい。私たちが日々知るのは尊厳ある隣人が侮辱され傷つけられている世界の現実だ。自分自身にもその苦しみがあるとも言える。人間として奢らないが卑下もしないプライドと、そして、神の真実に信頼する勇気、その勇気を信仰と呼ぶ。勇気をもって、自分自身の隣人になり、他者への共感と連帯に自分を開いて、一日一日を歩んでいこう。Ω

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