札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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◆「神の家族」
「統一協会」と、彼らが長らく癒着していた保守的な政治家たち。両者は教祖・神を頂点とするか、あるいは天皇や国家を頂点とするかという違いはあれど、信者(もしくは国民)を統一し管理(搾取)するために勝手の良い「家族主義」を殊更強調しています。結婚・出産が重んじられ、家族間の共助が勧められます。それは一見聞こえの良いことのようで、私的な領域に介入してその在り方を決めつけるような動きに危機感を覚えます。そのような思想信条のもとでは個人の尊厳は必然的に制限されていくことでしょう。
キリスト教会も、その歴史の中で「神の家族」というイメージを標榜し続けてきました。互いを兄弟姉妹と呼び合い、聖餐において主の食卓を共に囲むことを通して、「神の家族」としての親しさを確かめてきました。その意義を吟味すると共に、その表現にある価値観を客観的に問う姿勢もまた大切です。
パウロは、イエス・キリストにおいて示された神の恵みは普遍的であるという信仰的確信をもって、それまでの宗教的枠組みを大胆に越えていきました。「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である。」(エフェソ)「あなたがたはキリストに在って、神の子なのだ。そこでは、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない、あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つなのだ」 (ガラテヤ)と。「神の家族」とか「キリストに在って一つ」と言われる時、そこでは全体主義的な一体性ということが殊更重視されているわけではないように思います。パウロが見つめるのは、まずもって一人一人の神に肯定された存在です。一人一人に分け隔てなく、等しく与えられた神の愛と恵みです。全体のために個が存在するという発想ではなくて、どこまでも個が尊重されるのです。
しかし、それぞれに尊重されるべき個も、独りでは生きられません。わたしたちは「共に」でなければ生きられない者であり、互いに必要な「部分」なのだという気づきを与えられています。教会は、神に愛され生かされている互いの存在を祝し、キリストの恵みを分かち合い、共に苦しみ、共に喜び、生きていこうと志す群れです。その姿において「キリストにあって一つ」「神の家族」と表現されるのであって、人間の恣意的な一致や支配というものには依らない、むしろそれらを退けるのです。
◆「家庭よ、閉ざされた家庭よ。私は汝を憎む」(アンドレ・ジッド)
「わたしの母とは誰か、わたしの兄弟とは誰か。」「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。辛辣な、しかし真実な言葉です。また、10章34節ではこうも言われました。「わたしが来たのは…平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに、こうして自分の家族の者が敵となる。」
主イエスは、何も家族というものを、根底から否定されたわけではありません。しかし、家族というものが時に陥る排他的で利己的な側面を見抜いているのです。家族・家庭という単位が、実に「○○ファースト」のような偏狭で差別や戦争を助長する社会の温床になりうるのです。あるいは、閉ざされた逃げ場のない「家庭」において尊厳や権利を傷つけられ、肉体的心理的に抑圧されている人がどれほど多くいることでしょう。主イエスは、そのような利己的な「家族」「家庭」が陥る見せかけの平和や一致、その暴力性に対し、「剣を投じる」と迫り、それを断ち切って、一人一人を神の子、神の民として解放し、生かそうとするのです。
◆神の御心
「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。
「天の父の御心」をすべて知り得ないとしても、少なくともキリストにおいて世に啓示されたのは一人一人への永遠の愛です。御心はすべてここに基づいており、そこに一人一人の絶対的尊厳があります。この御心によって生かされ、この御心の中で他者のいのちを見つめ、他者と共に生きるように促されています。そこに「見なさい」、神の家族があるのだと言われるのです。
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