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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
説教

◆イエス・キリストだけが語り得る福音
「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」「今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」。「貧しい人は気の毒だ、泣いている人は可哀そうだ」という同情なら分かるのです。主イエスだって人々の生きる苦悩を同情されなかったことはないでしょう。主イエスこそ、一人ひとりの苦悩に共感し、「憐れんだ」と繰り返し福音書には記されているのです。そして、「今飢えているあなた」「今泣いているあなた」との主イエスの呼びかけは、聖書の文字から飛び出してきて、まさに今のわたしに告げられている主イエスのリアルな言葉です。主イエスは「あなたの今」という現実をご存じであり、誰よりも共感してくださっているということです。「あなたの貧しさ、あなたの飢え、あなたの涙、あなたの苦しみを今、わたしは誰よりも深く知っている」と。
しかし、主イエスは苦悩に共感・同情してくださるだけではない。深く同情し共感すればこそ、この現実を包んでいるまことの幸いを示されるのです。「あなたは幸いだ」と宣言されるのです。神の国はあなたと共にある、あなたは満たされる、笑い、喜び踊るようになる、「天には大きな報いがある」と。すなわち、神はあなたを決して見過ごしにはされない。決してあなたを絶対に欺かない。あなたのすべてをその愛ゆえに導いておられるというのです。これは「そういう幸いが訪れるといいね」というような根拠のない希望的観測や気休めの言葉ではないのです。まことに貧しさも飢えも悲しみも、ののしりもその身に負い、十字架で死なれ、しかし、その死から復活させられたイエス・キリストだからこそ、イエス・キリストだけが語り得る福音なのです。

この福音を受け止めることは、全くもって信仰の領域です。主イエスの眼差しに捕らえられ、この宣言を信じて、いや、信じさせられて・・・・・・・、この人生という地平を懸命に生きていくのか、それとも、そのようなものは愚かな妄言に過ぎないとして、聴く耳持たず、ただ見えるもの、聞こえるものだけを頼みとし生きていくのか。主イエスのこの福音の宣言に、わたしたちの生き方の、命の分岐点があります。福音は、ある人にはどこまでも尊い宝あり、ある人にとっては、愚かで無価値なものです。しかし、主は分け隔てなく今日もその福音を種まかれます。

◆幸いな人生とは
マタイによる福音書の主イエスは、山上で弟子たちに教えを語っている(マタイ5:1)のに対し、ルカによる福音書のイエスは、山から下りてきて平地で弟子たちと群衆に教えを語っています(ルカ6:17、7:1)。バリアフリーです。それは、すべてのものが神の前に等しいことを意味すると共に、一人ひとりが自分の人生という地平から、垂直へと、あるいは永遠というものへと心を向けさせているということでもあるでしょう。たとえ、この地平においては、自らの誇りとなるもの、拠り所となるものが何ひとつなくとも、たとえ、貧しさ、飢え、涙、苦しみが支配し、「自分の人生とは何だったのか」と嘆くとも、それがすべてではないということ、この私をまことに包んでいるのは、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」との天からの永遠の祝福であるということを信じ、この愛に自らを委ねて生きるところにこそ、まことの幸いな人生があるのです。

主イエスは、ここで「不幸」についても語られました。「富んでいるあなたがたは、不幸である」「今満腹している人々は不幸である」「今笑っている人は不幸である」「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」。ここで「不幸だ」と宣告されるのは、ただこの世的に富んでいるから、満腹しているから、笑っているから、人々から賞賛されているから、という理由ではありません。そうではなく、その状態に満たされて、それがすべてであるかのように留まってしまっているからです。確かに地上の幸いは既に与えられているだろうけれど、それはほんの一時的な僅かなものに過ぎない。それらは死と共にすべて失われるべきもの。それなのに、そこにしがみつき、それを誇り、それを獲得し貪るために力を振るい、人を裁き、殺し、奪い、敵対しあっている。そこに存在を浪費する命は不幸・禍いとしか言えないのです。

◆主に選び出され、遣わされた者として
まことの幸いとはなにか。このわたしを知り、このわたしを愛する天の祝福を聞き、この祝福を互いに分かち合って生きる道へと主は招かれます。信仰の営みは、苦しい現実から逃避し、麻痺させるための手段ではなく、むしろこの苦悩の絶えない現実へと、自らの人生の平地へと向かわせていく力です。
神が、イエス・キリストの死と復活において示された生も死も貫いてある愛を、信じて生きるという幸いを、この世において分かち合い、またこれの福音を証ししていくために、私たちは集められ、遣わされています。
12人の弟子たちが主イエスの徹夜の祈りによって選び出された(6章12節)ように、私たちもその脆さや過ちの多さにも関わらず、主に選び出され、遣わされている一人ひとりであるということを忘れてはならないと思います。それが札幌北光教会の歩もうとしてきた130年間であったし、ここからもなお変わらない使命であることを確かめたいと思うのです。

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