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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
説教

◆信仰の営み
神は、愛する子のために、あえて誘惑や試練を与えて鍛えようとされるのだという考え方があります。それは本人の受け止め方次第であり客観的には説明できないことです。他人が「これは神からの試練だ、教育だ」などと無責任なことを言うことはできません。それで本人を精神的・肉体的に追い詰めてしまっているならば、それは「信仰という名を使った虐待」になりかねません。本人が神との対話の中で主体的にどう判断するか、「これはこのわたしにとって大切な試練だ」と信じて、その困難を主の手から受け取っていく時にのみ、それは意味のあるものになるのです。 信仰生活は、神の導きの中で喜びや悲しみや悩みや失敗や、それらを心に納め、意味を見出していく営みです。また、そこから神への感謝や希望や信頼が深められていく営みです。アブラハムが希望するすべもないような中でなお希望したとか、イスラエルの民がバビロン捕囚の苦しみに自らの罪と神の憐れみを見つめて再び立ち上がっていったとか、イエスの弟子たちが、聖霊によって力づけられ目には見えないイエスと共に歩み出していったとか、聖書はそのような信仰の姿を生き生きと描いています。パウロは、「常に喜び、たえず祈り、何事にも感謝しなさい」(Tテサロニケ5:16以下)と言いました。うわべだけの綺麗事ではありません。喜びなど見えない苦しみの中にも、実は決して失われない真の喜びがあるということ見つけていくこと、祈れないと思う辛さの中にも、いつも自分と向き合ってくださっている神を知り、祈ることができるという道を見出していくこと、感謝できないと思うことにも、感謝しなくて良い時などないほど神の愛に生かされていることを見出していくこと。それが信仰という営みです。
信仰の営みは、放っておいても勝手にできる、自然と芽生えるものではありません。放っていれば、すっかり枯れてしまい、すっからかんになってしまいましょう。信仰もまた水を注ぎ、養われていくものです。もしも神様が、わたしたちをただ放っておくだけで、何ひとつ鍛え養うことをしてくださらないとしたら、それはそれで神様の“ネグレクト”ですよ。恐ろしい話です。決して神様はそのような方ではありません。神はいつも呼びかけ、養おうとしてくださるのです。そこで、自分にとって誘惑だ、困難だと思われることが、実はその人にとって神に深く出会う、あるいは神によって立ち上がる大切なきっかけとなったりするのです。しかし、繰り返しますが、神の試練は他人が決めつけることではないし、他人が代わってくれるものでもありません。本人が、そのことに気づき受け止めるというセンス・姿勢をいつも備えておくことです。そして、聖書の御言葉こそ、そして礼拝のひと時こそ、その気づきをもたらしてくれる糧です。

◆神の言葉によって
悪魔が空腹のイエスに言います。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。これを主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない」と応えて退けました。これは申命記8章の言葉です。イエスは言うのです。人はパンだけで生きるのではなく、天からの糧、すなわち神の言葉という糧によってこそ生きるのだと。自分はパンだけで生きているのではない、すなわち自分の手の働きだけ生きているのではない。神に聴き、神に祈り、神と向き合うその交わりの中でこそ、人は本当の意味で生きている、と言えるのです。礼拝は、まさにその糧を共に分かち合うひと時です。神の言葉によって生かされてこそ、自分をパンで満たすためだけに生きるのではなく、隣人と分かち合って生きていくという喜びが幸いが見出されていきもするのです。

◆神に仕える生き方
悪魔は「私を拝めば、権力と繁栄を与えよう」と試しました。悪魔を拝むことと、権力と繁栄が与えられることは一つのことです。富や力を追い求めること自体が悪魔を拝んでいることなのです。自分の富と力を求め、自分の支配下に置きたい、自分の名を残したい、あるいは、それによって他人を貶め、踏みにじっていることに気づかないその無自覚と独り善がりこそ、悪魔を拝む、悪魔に仕えることなのだと。イエスは、これを退けて言います。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。それは悪魔を拝み、富と力に仕えることと逆の生き方です。すなわち、富や力を分かち合う生き方です。「あなたはわたしの愛する子」との天の声が、他者の命に響いているのだということを聴くものとなっていくことです。もしも、自分が、あるいは教会が、自らの拡大や、温存や、自己実現だけを求めてしまっているならば、そういう方向だけが教会運営の動機になってしまっていたら、それはまんまとからめとられているのであり、危険信号です。
飼い葉桶に生まれた主イエスがもたらした人々の救い、解放と平和とは何でしょうか。それは、この荒れ野のような世界の中で、自己満足、自己保身に捕らわれない、神を信頼し、神に委ねていきる自由、神の「あなたはわたしの愛する子」との祝福にこそ自分自身と他者の存在の喜びを見出して生きることです。教会創立130周年を迎えるこの年、私たちは荒れ野のような時代の中に立つ、自分の信仰者としての生き方、教会としての在り方をみ言葉の中から示されて続けていかなければならない、改めてそう思います。

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