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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
説教

◆祝宴
徴税人レビが、イエスに従いました。徴税人として人々から嫌悪され軽蔑されていたレビは、主イエスの眼差し、呼びかけに自分という存在が肯定され、必要とされていることを感じ取ったことでしょう。すべてを捨てて従ったというレビですが、実は、キリストの福音が彼を捕まえたといった方が正しいでしょう。レビは主イエスを自宅に招き入れ、盛大な宴会でもてなしました。そこにはレビの喜びが表れています。日曜日の礼拝もまた、それは整然と進められる式でありながら、一つの「祝宴」です。主に招かれ、受け容れられた者たちの命の喜びの宴です。皆が、主に見いだされ、愛され、招かれた喜びをもって共に食卓を囲み、「サービス(=礼拝)」するのです。

◆主の方から隔てを越えて
祝宴の様子を、ファリサイ派や律法学者たちが見ていました。彼らは、罪人に等しい徴税人たちとは決して交流しようとしません。明確な一線がそこにはあったのです。けれど、主イエスは、その一線を堂々と踏み越えてゆかれました。神の目には、そこに線も壁もないのだということが示された行動です。ファリサイ派の人々はぼやきました。「なんでイエスもその弟子たちも、あんな奴らと食事をするのか」。こういう目には見えない隔ての壁・バリアは、私たちの内にも多々あることでしょう。
主イエスは言われました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。」「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」
病人は、自分の方から医者を必要とするものです。では主イエスとわたしの関係についてはどうでしょう。私たち自身が自らの「罪」の現実に気づいて、主イエスを必要としたでしょうか。いいえ、私たちの気づきや求めによるのではなくて、主の方から私たちを見出して来て下さった。大切なことは、主の方からどんな壁もバリアも越えて来て下さったという事実、その主のまなざしに見つけ出されていることを知ることです。その時、私たちは、自らの罪という病を知ると共に、既に主が手を置いて下さっていることの平安をも知るのです。主がこの私を愛し重んじてくださっている、そこでこそわたしたちは自分が「生きている」と心から言うことができる、そこに「悔い改め」は起こっているのです。


人々はこのような主イエスに疑念と不満を抱きました。徴税人と宴会なんて言語道断ではないか、もっと禁欲的で、敬虔で、模範的であるべきではないか、というわけです。これに対して主イエスは「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる」と応えました。新しいぶどう酒は、発酵力が強く膨張しますから、古く堅くなった革袋に入れたのでは、ひび割れて滲みだし、やがて張り裂けてしまって、せっかくのぶどう酒も革袋も両方ともが無駄になる。「新しいぶどう酒は、弾力のある新しい革袋に入れるべし」。主イエスは生活常識によってたとえました。すなわち、「こうあるべき」「こうすべき」というがんじがらめの凝り固まった、そして愛のない考えこそが古い革袋です。硬直したその中に、「新しいぶどう酒」というイエス・キリストの福音(生き生きとした喜ばしい知らせ、内側から豊かに広がる希望)を入れることはできないのです。キリストの福音を生きる者となるために、文字通り、「改革」「革新」されなければならないということです。もちろん、新しければなんでも良いというものではなく、変わるべきものと、変えてはならない本質とを見極める力が必要です。主イエスは、ここで変わるべき時が来てきることを告げているのです。しかし、人々は自分の正しさに固執し、律法という伝統を守ること自体が目的と化し、主イエスを拒絶した。古い革袋のまま旧態依然とあろうとした。それこそが十字架の死です。

◆新しい革袋へ
十字架で主イエスの血が流れ落ちた時、そこで死んだのは、主イエスお一人ではありませんでした。新しいぶどう酒は、古い革袋を内側から打ち破ったのです。新しいぶどう酒としての主イエスは、古く固くなった人間を打ち破って、打ち壊して、その血を流されたのです。すなわち、主イエスと共に、もはや古い私たち自身が死に、新しい革袋としての命が与えられたのです。それは、主イエスがもたらされた神の愛と祝福を蓄え、隔てを越えて互いに分かち合う新しい革袋です。聖餐の杯、それはまさに「新しいぶどう酒」を私たちの内に注ぐことです。これによって、古き私たち自身が打ち破られ、新しい革袋とされていることを確かめるのです。私たちは、破れたり、ほつれたりしているところを、その都度「継ぎはぎ」しながら生きているような者ではなく、全くキリストを身にまとっていること、ただこの方の命によってこそ生かされていることを確かめたいと思います。
札幌北光教会は今年130周年を迎えます。130年前、教会がこの地に誕生したことは、新しいぶどう酒が注がれる出来事であったでしょう。では、130年後の今、キリストの福音はその香りを失い、腐敗してしまったでしょうか。いや、かえって今この時代にこそ、それは新しいぶどう酒です。生きた神の言葉であるイエス・キリストは、日々新たに私たちに語り、導き、古い革袋を変革させ、神の国を建て上げるべく働いておられます。札幌北光教会の歴史の先頭に立つ私たちは、ここで祝宴としての礼拝の喜びを分かち合い、レビのように立ち上がって、主に従う群でありたいと願います。

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