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牧師 指方 信平(さしかた しんぺい)
牧師 指方 愛子(さしかた あいこ)
説教

◆時満ちて
イエス・キリストは故郷ナザレの会堂で、イザヤ書の言葉を朗読しました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。(イザヤ書61章1−2節)
これはすなわち、苦しみや嘆きを味わい、その存在を抑圧され、軽んじられ、否定されて生きている人々が、「自分もまた神に肯定され、愛された尊い存在なのだ」「自分もまた神の子なのだ」という真実を見出し、それによって立ち上がって生きていくために、神が遣わされる方がいる、という預言です。
主イエスは、この箇所を読んだ後、人々に向かって宣言しました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」(21節)。遥か500年前のあの預言者イザヤの告げた言葉が、長い時を経て、今、あなたがたの目の前で実現したというわけです。
ある日本語の聖書は、21節を次のように訳出しています。「この書かれた言葉は、今日あなたたちの耳のうちで満たされた」。「満たされた」という時、それは少しずつ時が経過していったという意味合いをより含んでいます。500年前に語られた預言者イザヤの言葉がある日突然実現したというのではなく、砂時計の砂が徐々に下に溜まるように。長い時の経過の中で、人も世も移り代わり、草は枯れ、花はしぼみを何百回と繰り返していったけれども、主の言葉は決して失せることなく、音もなく静かに満ちていった、そして遂にその時が来たというわけです。
ルカによる福音書が、1章から順序立てて丁寧にイエスの出現を描くことによって、満ちていく神の時を表わしたのです。砂時計の3分でさえ長く感じてしまうような、せっかちで、心変わりしやすい人間には到底捉えられない神の大きな御手、大きなスケールの御業の中で世界は導かれ、イエス・キリストが現れたことを物語っています。神が遥か昔からその御心に持っておられたあなたがたへの愛、その愛が満ち、極みに達した時、それがイエス・キリストにおいて現わされたということです。その愛は、決して思いつきのその場限りのものとか、気休めやごまかしのようなものではないということです。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」洗礼を受けたイエスに注がれた天の言葉が、イエスと共にすべての人々に分け隔てなく注がれるのです。その祝福は誰もが耳にすることができるはずのものであり、その福音は、人々の内で、30倍、60倍、100倍にもに豊かに育ち実っていくものです。その福音を、一人ひとりの命にもたらすために、イエスは世に生まれ、そして今イエスの方から出かけていかれたのです。

◆世の姿
ところが、その福音を聴こうとしないこの世の人間の頑なさが故郷ナザレの人々の姿において語られています。人々は、イエスの出自を疑問視し、受け容れようとはしませんでした。彼らは自分の知っていること、目に見えることばかりに囚われ、目には見えない神の愛という現実をイエスに見つめることができませんでした。イエスに近いはずの人ほど、イエスのことを良く分かっていると考えている人ほど、実はイエスにおいて満ちている神の恵みに無理解で頑なであったのです。
また、主イエスは言いました。「きっとあなたがたは、…カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ、というに違いない」。つまり、イエスの力を自分たちが独占したいという思いを秘めている。それ以外にイエスには用などないのです。そうした彼らの利己性と無理解をここでイエスは見抜いているのです。これはナザレの村の人々だけの話ではありません。これが世の人間の有様だと福音書は語っているのです。その結末が、十字架の死です。

◆聞く耳のない世で
始まったイエスの福音宣教が、いきなり出鼻を挫かれたような出来事でした。しかし、反対に言えば、このような世界にこそ主イエスは踏み込んで来られたのです。そして、主イエスの福音宣教は、聞く耳を持とうとしない世にあって、今日もなお続けられているのです。十字架に死なれ、しかし復活された主イエスは、今日も明日も、この世界を、そこに生きる一人ひとりを愛すべき、ご自身のあるべき「故郷ナザレ」として諦めることなく探し、訪れて続けているのです。
札幌北光教会は、イエス・キリストの体として、130年の歩みの中でそのことを証ししようとしてきたのです。主があなたに呼びかけ、あなたの内に神の愛が満ちているということを。これからも証し続けていくのです。その歩み、その働きは、砂時計の砂のように、いやからしだねのように、ごく僅かなものかもしれません。しかし、それがアルファからオメガへと満ちていく神の時の中で無駄にされず(フィリピ2:16)、用いられているということを信じて、一人ひとりが福音宣教に励みたいと願います。

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