札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子
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◆復元ではなく復活
1万2000年前に絶滅したダイアウルフの “復元”に成功したというニュースがありました。データやシステムの復元、文化財の復元といいますが、要は「当初の状態に戻す」という作業です。しかし復元されたものは再び死ぬ、あるいは再び壊れるのです。「復活」は根本的に異なります。それは死そのものの克服であり、いわば、死に対する勝利です。毎日曜日、わたしたちが集まって礼拝するのは、この日がイエス・キリストの復活の朝だからです。イエスにおいて死に対する神の愛の勝利が示されたこと、もはや死ではなく神の絶対の愛が私たちを捉え導いておられることを信じて共に主を讃美するのです。
この礼拝堂では葬儀も行われます。葬儀の度に確かめられてきたことは、「この方の人生もまた神に愛された豊かなものだった、良き交わりが与えられた、ありがとう。さようなら」ということではありません。「土は土に、塵は塵に、灰は灰に」という死ぬべき人間の儚さを見つめつつ、しかしなおその人の死を貫いて愛する神を信仰によって見つめていくのです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(コリントT 15:55)「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た…もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである…」(ヨハネ黙示録21章)畏れるとするならば、死を恐れるのではなく、この死をも貫く神の愛をこそ畏れるのです。そしてそのような神の愛に対する信頼と希望のゆえに、キリスト者は苦難の中でも「待ち望む」人々なのです。闇の中に光を見つめていくのです。
◆喪失の悲しみを超えて
3名の方が受洗・転入されました。それぞれが愛する方との別れを経験してこられました。夫を亡くし、あるいは母を亡くし、大切な人との別れ、喪失の悲しみを経験してこられた、しかしまさにそのことがきっかけとなって教会へと導かれてきたのです。ご自分の意志で洗礼や転入を決意されたように思えて、確かにそこに主の導きがあることを感じさせられます。これから共にここで共に礼拝を守りつつ、死を超える神の愛において、先に召された方となお一つであるという慰めと希望が増し加えられると共に、自分の歩みを主に信頼し、常に主を覚えて歩まれることを願います。
◆呼びかけるイエスの声
ヨハネによる福音書は、イエスの死と復活について物語る以前に、11章でラザロという人物の復活について語っていました。主イエスは、人々が泣き悲しんでいるのを見て、心に憤りを覚え、興奮して「どこに葬ったのか」といって涙を流されたのでした。人々の悲しみに寄り添い、これをご自身の悲しみとされたということであり、また、その激しい憤りとは、人々を絶望に陥れている死に対するイエスの心の激しさでありました。人々はそんなイエスを見て「見よ、どんなにラザロを愛しておられたことか」言いました。人々はイエスの愛も、ラザロが死んでしまった今は、もはや為す術なしかと思いました。しかし、イエスが墓に向かって「ラザロ、出てきなさい」大声で呼びかけると、その言葉に呼び出されるようにして死んでいたラザロが墓から出てきた、という話。生き返ったラザロは、やがて再び死んだことでしょう。それならば、ラザロの甦りは“復元”に過ぎず、ぬか喜びに終わるでしょう。しかし、福音書が伝えようとしているまことの喜びは、死という沈黙の壁を貫き、それを打ち破って呼びかける命の羊飼いである方の声があるということです。
そして、イエスご自身の死と復活が語られることによって、ラザロに向けられたイエスの声は今も生きて途絶えるがないということが証しされました。空っぽの墓を見て泣いていたマグダラのマリアに呼びかけるイエスの声がありました。「マリア」、その声に彼女は振り向いて「ラボニ」(先生)と答えました。これはイエスの復活の物語であると共に、マリアの復活の物語です。失意の中にあった彼女の心が、復活の主へと振り向いて立ち上がっていった、そして弟子たちに「わたしは主を見た」と証言していったのです。
◆わたしは主を見た
そこにはマリアの驚きと喜びが言い表されていますが、正確には、「わたしは主を見た」というよりもむしろ、「わたしは主によって見出されていた」のです。一匹の羊を探し、そのために命を捨てる羊飼いによって見つけ出されたのです。そして、これは今日、わたしたちの物語に違いありません。私たちもまた今日主イエスによって間近で見出され、その名を呼ばれています。その声の方に心を振り向け、その声によって死の支配から呼び起されて新たに立ち上がっていくのです。そうして互いに、日々の生活の中に生きて働く主の愛と恵みを見つめつつ、「わたしは主を見た」「主はわたしを見出してくださった」と証ししながら歩んでいくのです。
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