札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光

日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

札幌北光教会/トップお問い合わせ
札幌北光教会/トップキリストの招き平和宣言過去の信仰告白オルガン結婚式・葬儀アクセスマップfacebook
教会案内礼拝案内集会案内牧師紹介/説教納骨堂/クリプト北光貸し会議室

>札幌北光教会/トップ  >教会案内  >バルメン宣言


ナチズムとそれに迎合する「ドイツ的キリスト者」と戦うため、ルター派、改革派、合同派が一致して行った信仰告白。
主に、20世紀を代表する神学者カール・バルトが起草した。
重要なのは後半部分にある6つのテーゼである。原典つき。

ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言(バルメン宣言)

1934年5月29−30日、バルメン告白会議の神学的宣言

ドイツ福音主義教会は、その1933年7月11日の憲法前文に従えぱ、宗教改革から生まれた等しい権利をもって並存している諸告白教会の同盟である。それらの諸教会を結合している神学的前提は1933年7月14日に政府によって承認されたドイツ福音主義教会の憲法第一条および第二条第一項において次のように述べられている。

第一条ドイツ福音主義教会の侵すべからざる基礎は、聖書においてわれわれ証しせられ宗教改革の信仰告白において新しく示されたイエス・キリストの福音である。教会がその使命のために必要とする一切の権限は、その事実によって規定され、且つ制限されている。

第二条第一項ドイツ福音主義教会は、諸教会(州教会)に分かたれる。

ドイツ福音主義教会の告白会議に集ったわれわれルター派教会、改革派教会、合同派教会の代表者、および独立したもろもろの教会会議、諸大会、諸団体の代表者は、われわれがドイツの告白諸教会の同盟としてのドイツ福音主義教会という地盤の上に、共に立っていることを宣言する。その際われわれを結合するものは、一にして聖なる普遍的な使徒的教会のただひとりの主に対する信仰告白である。

われわれは、この信仰告白の連帯性と同時にドイツ福音主義教会の一致が、極度の危険にさらされているという事実を、ドイツにおける全福音主義教会の前に、公に宣言する。それが脅かされているのは、ドイツ福音主義教会成立の最初の年に次第に明らかとなってきた、ドイツ・キリスト者という有力な教会的党派およびその党派によって支持されている教会当局の指導方式・行動方式による。この脅威というのは、ドイツ福音主義教会を統一している神学的前提が、ドイツ・キリスト者の指導者・代表者によっても、また教会当局によっても、たえず根本的に他のさまざまの前提によって妨害され無効なものにされているという事実である。われわれの間で効力を持っているどの信仰告白に従っても、もしそのような諸前提が通用するならば、教会は教会でなくなる。従ってそのような諸前提が通用するならば、ドイツ福音主義教会もまた、告白教会の同盟として、内的に不可能となるのである。

われわれは今日、この事柄に関して、ルター派・改革派・合同派各教会の肢々として、共同して語りうるし、また語らねばならない。われわれがそれぞれの異なった信仰告白に対して忠実でありたいと願い、またいつまでも忠実でありたいと願うゆえにこそ、われわれには沈黙が許されない。それは、共通の困窮と試練の一時代の中にあって、われわれは一つの共通の言葉を語らされると信ずるからである。このことが告白教会相互の関係にとって、どのようなことを意味しようとも、われわれはそれを神に委ねる。

われわれは、教会を荒廃させ、そのことによってドイツ福音主義教会の一致をも破壌する「ドイツ・キリスト者」および今日のドイツ教会当局の誤謬に直面して、次の福音主義的諸真理を告白する。

『第1テーゼ』

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことができない」
(ヨハネによる福音書14・6)

「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た人は、みな盗人であり、強盗である。
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネによる福音書10・7、9)

聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。

教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

『第2テーゼ』

「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである」
(コリントの信徒への手紙一1・30)

イエス・キリストは、われわれのすべての罪の赦しについての神の慰めであるのと同様に、またそれと同じ厳粛さをもって、彼は、われわれの全生活にたいする神の力ある要求でもある。彼によってわれわれは、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝にみちた奉仕へと赴く喜ばしい解放を与えられる。

われわれがイエス・キリストのものではなく他の主のものであるような、われわれの生の領域があるとか、われわれがイエス・キリストによる義認と聖化を必要としないような領域があるとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

『第3テーゼ』

「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされています」
(エフェソの信徒への手紙4・15、16)

キリスト教会は、イエス・キリストが御言葉とサクラメントにおいて、聖霊によって、主として、今日も働きたもう兄弟たちの共同体である。教会は、その服従によっても、またその信仰によっても、その秩序によっても、またその使信によっても、罪のこの世にあって、恵みを受けた罪人の教会として、自分がただイエス・キリストの所有であり、ただ彼の慰めと指示とによってだけ彼が現われたもうことを期待しつつ生きているということ、生きたいと願っているということを証ししなければならない。

教会が、その使信やその秩序の形を、教会自身の好むところに任せてよいとか、その時々に支配的な世界観的確信や政治的確信の変化に任せてよいとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。

『第4テーゼ』

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(マタイによる福音書20・25、26)

教会にさまざまな職位があるということは、ある人びとが他の人びとを支配する根拠にはならない。それは、教会全体に委ねられ命ぜられた奉仕を行なうための根拠である。

教会が、このような奉仕を離れて、支配権を与えられた特別の指導者を持ったり、与えられたりすることができるとか、そのようなことをしてもよいとかいう誤った教えを、われわれは退ける。

『第5テーゼ』

「神を畏れ、王を敬いなさい」(ペトロの第1の手紙2・17)

国家は、教会もその中にあるいまだ救われないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量(はかり)に従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、法と平和とのために配慮するという課題を、神の定めによって与えられているということを、聖書はわれわれに語る。教会は、このような神の定めの恩恵を、神にたいする感謝と畏敬の中に承認する。教会は、神の国を、また神の戒めと義とを想起せしめ、そのことによって統治者と被治者との責任を想起せしめる。教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する。

国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。

教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによってみずから国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。

『第6テーゼ』

「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28・20)

「しかし、神の言葉はつながれていません」(テモテへの手紙二2・9)

その中にこそ教会の自由の基礎があるところの教会への委託は、キリストに代わって、したがってキリスト御自身の御言葉と御業に説教とサクラメントによって奉仕しつつ、神の自由な恵みの使信を、すべての人に伝えるということである。

教会が、人間的な自立性において、主の御言葉と御業を、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に奉仕せしめることができるというような誤った教えを、われわれは退ける。

ドイツ福音主義教会の告白会議は、以上のような諸真理を承認し、以上のような諸誤謬を退けることが、諸教会の同盟としてのドイツ福音主義教会の不可欠の神学的基礎と考えることを宣言する。この告白会議は、その宣言に賛同しうるすべての人々に対して、彼らが教会政治的決断を行う際に、この神学的認識を記憶するように要求する。またかかわりあるすべての人々が、信仰と愛と希望の一致の中へと、帰り来るようにこいねがう。

Verbum Dei manet in aeternum(神の言葉はとこしえに保つ)

邦訳は信条集(新教出版社)のテキストに若干手を加えた。テーゼ部分は宮田光雄「十字架とハーケンクロイツ」(同)所収の訳文。ただし、引用聖句は新共同訳を基本にドイツ語原文と整合性を持たせた

バルメン宣言(英文) ダウンロード(PDF)
日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰

<日本基督教団は1941年、宗教を戦争に奉仕させようとする国家の政策によって、当時のプロテスタント教会が合同して成立した。 以下の書翰は1944年、日本軍が侵略した地域のキリスト教会に向かって、天皇崇拝と、日本が進める戦争への積極的協力を呼びかけるために作成された。 「全世界をまことに指導し救済しうるものは、世界に冠絶せる万邦無比なる我が日本の国体であると言ふ事実を、信仰によって判断しつつ我らに信頼せられんことを」と放言し、当時の教団が陥った異端状態と罪責をあらわに示している。 教団は戦後、この手紙を取り消す意図を込めて「戦争責任告白」を公にした>

序文

基督教は福音である。即ち「大なる歓喜の音信」である。故に四福音書あり、福音を伝へるために使はされた徒の旅行記あり、使徒パウロの著作は何れも教会或は同信同志の人々に贈った書翰である。福音書に始まった聖書はアジヤの七教会に贈ったヨハネの書翰で終ってゐる。基督教は実に福音である。

今茲に日本基督教団が東亜共栄圏内の諸教会及び同信同志の兄弟達に書翰を贈る所以は、基督教が「大なる歓喜の音信」であると云ふ信仰に基く為にして之を現代の使徒的書翰と称するも言ひ過ぎでなからう。

日本基督教団は東亜共栄圏内の基督教会に対して常に関心を有し其の発達のため熱祷して已まない。これが為め教団は共働者を遣し、又必要なるものを送らうと計画してゐるが今日の事情に於ては其の志望の如く実行できないのを甚だ遺憾としてゐる。已むを得ず、先づ教団を代表する公同的使徒的書翰を送って挨拶し、我等の平素の志を略述する事にした。其の詳しき内容に就いては受信者が本書翰を詳かに通読せられん事を望む。

日本基督教団の現代的使徒書翰は、本書が第一信であつて、続いて屡々書翰を贈る計画である。望むらくは諸君が此等の書翰を隔意なく迎へて、これを文字通りに解釈して、我等の志を理解し、信望愛を同じうせられん事である。少数ではあるが日本基督教団より特派した伝道者あり、書翰中に若し諸君に理解し難き所あらばこれを詳かに懇ろに説明するであらう。彼等も亦、使徒パウロの記せし如く「基督の書」であるから諸君は隔意なく彼等と親交せられん事を併せ望まざるを得ない。

予は教団の統理者として種々記したい事多いが、今は書翰を紹介する文だけに留め、後便に譲る事とした。書翰を読んだ人々にして其の腹蔵なき応答を寄せられるならば、我等の喜悦これより大なるは無い。

最後に予は二千年来伝へ来つた使徒的挨拶を以て此の序文を終らう。「願はくは、主イエス・キリストの恩恵、神の愛、聖霊の交感、汝ら凡ての者と偕にあらん事を」

昭和十九年

千九百四十四年復活節の日

日本基督教団

教団統理者富田満

日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰 第一章 〜 第四章 ダウンロード(PDF)
お問い合わせ北光幼稚園

個人情報保護方針について