札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子



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今日、お読みいただきました聖書の箇所を読むたびに、思うことがあります。日本人が子育てをするときについ口に出す言葉の一つに、「人に迷惑がかからないようにしなさい」というものがあります。皆さんも、自分が言われた経験があるかもしれません。ところが日本以外の、特に欧米の人たちは、子どもに「迷惑がかからないように」ということは言わずに、「困っている人がいたら手を差し伸べることができるようになりなさい」と言うそうなのです。子どもたちが他者に向かっていく言葉かけだと思い、私も心掛けるようにしていました。迷惑をかけない人なんていないからです。人は、自立するまでに様々な出来事があり、色んな人の手を借りながら、成長していくものです。迷惑をかけないように、裏返して言えば、迷惑をかけられたくない、という大人になっていくかもしれません。それよりも、困った人がいたら手を差し伸べる、自分も手を差し伸べてもらう、困ったときはお互い様、そんなあたたかな環境の中で、他者と共に生きる子どもたちは育って欲しいとつくづく思うわけです。
今日の聖書の箇所では、まさに、「迷惑な話」です。しかし、この隣人の救い、癒しをひたすらに求める人たちの姿の中に、主イエスは、信仰を見て下さいました。主イエスは「その人の信仰を見て」とは言わずに、「その人たちの信仰をみて」とおっしゃっいました。信仰という言葉はギリシャ語で「ピスティス」。信頼、誠実、真実、忠実、といった意味があります。この人たちは、神様は、必ず救いをもたらしてくださる方である、「今、この中風の人に、主イエスにお会いする必要がある、救いが必要である、」という必死さ、ひたむきさにという信頼をもって、この人たちはやってきたのです。屋根をはがす非常識と私たちの視点では思えるような中に、主イエスは注目してくださっているということです。
さて、この人たちの信仰を見て、主イエスが言われた言葉は、意外なものでした。「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。この人々は病を癒してもらいたい一心で主イエスの元にやってきたはずでした。ところが主イエスが語られたのは、「罪の赦し」というものだったのです。
その場にいた律法学者たちやファリサイ派の人々は、あれこれ考え始めました。主イエスは、問われます。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」
主イエスが問われたものの中には、私たちが神様!と言って求めるときに、何を期待しているのか、ということです。私たちは、「罪の赦し」ではなく、癒されない病を神様の力によって直してほしい、自分の願望をかなえて欲しい、そのような思いで神様を求めていないでしょうか。しかし、そのような思いで神様を求めても、それは私たちが都合よく利用できる偶像と言えるものでしかありません。そして、私たちの「奇跡が起こる」ことを求める願いは、終わりがありません。人生を歩んでいると色んなことが起こり、自分の思い通りになることばかりではありませんから、際限なく求めるのです。そしてそれは、私一人の願望です。視点は自分にしか向いていないでしょう。そのような仕方で、自分の都合の良い神様を求め続けるならば、自分の願いがかなえれない、と不満が芽生え、神様の救いを、恵みを見失ってしまいます。
「あなたの罪は赦された」、この主イエスの言葉は、神様が求めておられることであるということです。私たちが救われるということは、自分の願望のために神を利用することではなくて、神と一緒に生きていく、ということにあるというのです。神と一緒に生きるということは、神が私たちのことを信じ、愛し、あなたは尊い存在であると宣言してくださっていることを知ることです。そのように赦された私たちは、自分にしか向いていなかった視点を他者へと目を向け、他者と共に生きることが可能になること、このことが奇跡といえるでしょう。
屋根をはがしてまでも中風の人を主イエスの元に連れて来たことは、とても驚くことで、非常識だと思うような、しかしそこまでの熱心さがありました。けれども、それ以上に私たちの罪の赦しのために、救いのために、あり得ないことをされた神さまのその思いは、主イエス・キリストの十字架に示されています。自らの御子を十字架にかけることによって、真の神を求めない私たちの罪を、赦そうとされます。
最後に主イエスは、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう、と言って、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と中風の人に言われます。
2週前の信平牧師の説教で、主イエスの「権威ある言葉」とは、威圧的で、有無を言わせぬ権力的なものではなく、人を生かす言葉であるとありました。主イエスの罪を赦す権威もまた、力を見せつけるというものではなくて、人間がどんな状況にあっても、神さまは私たちと共に歩みたいと思っている、神様は私たちのことを忘れずに見捨てずに、罪があってもなお赦そうとされ、真の解放を告げてくださっていることを示すものでした。主イエスは床を捨てて家に帰りなさい、ということではなく、床をかついで帰りなさいと言います。過去の自分、失敗だらけの、悔いのある過去を捨てて、ということではなく、これまでの歩みもすべてひっくるめて、「その人の全存在を深く知り、愛し、赦し、祝福し、いつくしむ神様の真実の言葉がこの人に告げられた」のです。
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