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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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◆荒れ野で叫ぶ者の声
洗礼者ヨハネについて、すべての福音書が、預言者イザヤの言葉との関連(預言の成就)として理解し位置づけています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」。ヨハネは、人々に悔い改めを求めました。「悔い改め」とは、自の過ちを反省するとか部分修正ということではなく、180度の方向転換です。「自分たちはアブラハムの子孫だ」との特権意識ばかりで、実態は神の方を向いていない堕落を暴きました。厳しく激しいヨハネの信仰刷新運動は、まさしく「荒れ野で叫ぶ者の声」であり、従って、彼こそ救い主の到来に先立ってその道を整える者と受け止められたのです。

◆あなたはわたしの愛する子
このヨハネが16節で言いました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしより優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。「聖霊と火」の洗礼とはどういう意味でしょう。ヨハネ的には、「良い実を結ばない木を根元から切り倒し火に投げ込む」(9節)、「麦の殻を消えることのない火で焼き払う」(17節)というイメージと結びついている表現であるでしょう。荒々しい聖霊の風で吹き飛ばし、激しく燃える火でもって焼き尽くすような、容赦ない罪の裁きという洗礼です。
ところが、遂に人々の前に現れたイエスの様子は、ヨハネのイメージとは相容れません。イエスは、他の人々と同様に悔い改めの洗礼を受ける一人の人間として静かに現れました。それは、イエスが容赦なく罪を裁く方ではなく、人々と同じ目線で、人々と同じように喜んだり、悲しんだりする一人の人間なのだということを物語っています。そして、このイエスにこそ、「民全体に与えられる大きな喜び(2:10)」があり、まことの解放と救いがあるということを示す出来事として、イエスが洗礼を受けた時、「天が開け、聖霊が鳩のようにイエスの上に降って来て、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえてきた」のです。

◆聖霊と火の洗礼
鳩のように降って来る聖霊、天から響く愛と祝福の言葉。それはヨハネの告げた怒りや裁きとは対照的です。これはイエスこそ救い主であるということの象徴的描写ではありますが、同時にこうも言えます。すなわち、イエスが一人の人間として洗礼に与り、そこで聖霊を注がれ、神の愛と祝福の言葉を注がれたことは、そのままわたしたちの出来事として受け止めて良いのだということです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。神がそのようにイエスと同じく、このわたしを見つめ、呼びかけてくださるのです。過ちを犯さない正しい者だからという条件によるのではありません。世の中には人間が造り出す数々の条件がありますが、それら一切に先立つ大前提として、すべての命にこの神の愛と祝福の言葉は響いているのです。
一人の人間として洗礼を受けたイエスが、今度は人々に与えてくださる「聖霊と火の洗礼」があるのです。それはここでイエスが受けた神の愛と祝福を、人々に注ぎ、それによって人をまことに生かす洗礼です。聖霊と火、それはその人を神の子として生かすために吹き入れられる命の息であり、その命を照らし続ける永遠の愛の火です。

◆洗礼という不可逆の事実
洗礼は強制的ではありませんが、「別に受けても受けなくてもどちらでも良い」というようないい加減なものでもありません。ぜひ洗礼を受けてください。それは主イエスが受け、それゆえに私たちにも与えられる聖霊と火の洗礼です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」その祝福を内に刻み、これを命の息として、命の光として生きていくしるしです。
「洗礼は受けていないが心はキリスト者です」という考えを否定するつもりはありません。
それもまた一つの考え方でしょう。その時々の気まぐれで、その都度心変わりするようなあやふやな自分の気持ち次第でキリスト者であったり、なかったりするものなのでしょうか。私たちの側は、そのように火が着いたり消えたりするものです。そこでただ一度の洗礼は、聖霊と火によって神が刻まれる消えることのない保証・刻印です。しかし、確かに人間は洗礼の事実をただ形だけのものにしてしまう弱さがあるでしょう。パウロが外見だけの割礼を批判したように。洗礼者ヨハネが、「自分はアブラハムの子孫だ」と胡坐をかいている人を批判したように。洗礼についても同じです。内面が伴わないことがしょっちゅうあるのです。いつまでたってもクリスチャンに成り切れないところがあるのです。でもだからこそ、洗礼を受けたという事実は重たいのです。イエスが洗礼から歩みを始められたように、このわたしが主イエスの与えてくださる「聖霊と火の洗礼」を受けたということ、そこに、神によって命の息を注がれ、照らされているというわたしの原点があるということ、そこに真の喜びと希望を確かめて立ち歩み出すことができるのです。

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