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日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子

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◆クリスマス物語の締めくくり
「さぁ、ベツレヘムへ行こう!」といった躍動する羊飼いたちの姿とは対照的に、シメオンもまた84歳のアンナは、それぞれ人生における沢山の出会いや別れ、喜びや悲しみを重ね、老いの日々を過ごす中で、しわを重ねたその手で神に祈りながら過ごしていました。ルカ福音書が、クリスマス物語の締めくくりとして、シメオンやアンナといった人生の晩年を過ごす人々の賛美の姿を描いたことは、とても慰め豊かであると思います。

◆代償として
律法で定められた40日間の清めの期間を経たマリアとヨセフが、幼子イエスを献げるためにエルサレム神殿にやってきたという場面です。律法には、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と定められています。この幼子が神様によって造られ、生かされる「神のもの」であることを表わすためです。もちろん、実際に息子の命を神に捧げるわけにはいきませんから、その身代わりとして羊を献げるのですが、貧しくて羊を用意できない場合は、山鳩一つがいか、家鳩の雛2羽を献げるという決まりだったのです。マリアもヨセフも、動物の命を我が子の代償として献げるという習わしに従って神殿にやって来たのでした。
神殿境内のシメオンは、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とのお告げを聖霊から受けながら、その時を待ち望んでいました。年老いた彼は、救い主の現れを「久しく待ちにし」イスラエルそのものを象徴しています。幼子を腕に受け取ったシメオンは、賛歌の中でこう言いました。「わたしはこの目であなたの救いを見た。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光」。シメオンがそこで見たものは、単にユダヤ人の慣習の儀式ではなく、万民に与えられる救いを見たのです。すなわち、この幼子が世のすべての民のために、罪の世を贖う献げものとして御自らを献げてくださるためにきてくださったとの恵みを見たのです。キリストの到来をその腕の中に確かめた時、シメオンは言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせてくださいます」。完全に満たされ、「ああこれでもう自分はいつ召されても良い」と思ったのです。

◆先取り
この時シメオンは、ただ一人の赤ちゃんイエスを抱いただけで、大人になったイエスの神の国宣教も、十字架の死も復活も何一つ知らないのです。シメオンもアンナも、イエスが公に活動される約30年後は世を去っていたはずです。ですがシメオンは言うのです。「わたしはこの目であなたの救いを見た」と。84歳のアンナも、救いを待ち望んでいる人々にその到来を話して回ったのです。彼らは、救いを“先取り”しているのです。救いはいまだ成し遂げられはいない、けれどもシメオンはそれを先取りするように既に腕に抱いているのです。早合点しすぎでしょうか?そうではありません。ここに信仰に生きる者の神髄が表れているのです。
キリスト者は、「既に」と「未だ」の間を生きています。マリアは、まだお腹も大きくなっていないのに、主をほめたたえました。それはなお未来のことでありながら、既に始まっている、息づいているのです。球根の中に花が秘められ、さなぎの中に命が秘められている、いのちの終わりにいのちの始めが秘められているように、未だ目には何も見えないけれど既に始まっている、その希望に生きるのです。シメオンとアンナの姿はその信仰を証ししていると言えます。

◆主を待ち望む
年が改まったとはいえ、なおこの世界は暗く希望が描きづらい状態です。人間の力と野心が跋扈し、命を蹂躙する現実、人生への嘆きがあります。しかし、その現実を前に立ち尽くすのではありません。そこに光はしずかに確かに輝いている。朝を告げる曙が、義の太陽(マラキ書3:20 讃美歌262番)が昇っていることを私たちは見つめるのです。希望とは程遠い苦しい現実の中にありながら、神はその約束を決して欺くことはないのです。私たちはアドヴェントの日々を過ごしました。かつて飼い葉桶に来られたイエス・キリストが再び来られるその御業の終わりの日を待ち望むのです。神の愛がすべてを成し遂げられるその日が訪れること、すべてが主の御手の支配の中にあり、時はアルファからオメガへと満ちていっていることを、目を覚まして待ち望みながら、この年もまた主に愛され生かされてある一日一日、心から賛歌を歌い続けていくのです。そして、わたしたちもまた、主イエスがそうされたように、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」(ローマ12:1)として捧げ、主に用いていただく生き方をしたいと願います。

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