札幌 納骨堂 札幌市中央区 貸し会議室 納骨堂/クリプト北光
日本基督教団 札幌北光教会 日曜礼拝 木曜礼拝 牧師/指方信平、指方愛子



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系図の中に5人の女性たちが出てきます。問題ある女性たちと言われることもありますが、それは、異邦人、遊女、不倫といういずれもイスラエルにとっては好ましくない人たちだったからです。問題ある女性、そういう表現に触れると、何か、この女性たちだけに問題がある、この人にのみ罪があると、私たちの問題として考えられない表現になってしまいます。
タマルは、二人の夫、兄のエルと弟オナンに先立たれ、父親のユダからは、不吉な女として末息子に嫁がせてもらえず、かといって、世間体や多額の賠償金支払いを渋るために正式に離縁されることもなく、実家に帰されてしまいます。妻に先立たれたユダの前にタマルは遊女の恰好をして、ユダと関係するようにしました。
ラハブは、エリコの街の遊女でした。彼女は敵であるイスラエルの斥候をかくまいます。もしもこの戦いでイスラエルが負けたなら、ラハブは裏切り者ということで死刑になっていたことでしょう。彼女は、命がけで本当の神に未来を託したのでした。
3人目のルツにとってイスラエルへ行くということは、男性中心、ユダヤ人中心の中へ、さらに寡婦であったため二重、三重の差別の中に飛び込んでいくようなものでした。そんな中で畑の所有者ボアズと結婚しますが、この方法は、夜にこっそりとボアズが横になっているところへ忍びよるというものでした。明るみにでたらルツはふしだらな女だと言って、命がなかったかもしれません。
4人目は、ウリヤの妻、バト・シェバです。イスラエルのダビデ王は、戦地にいるウリヤという部下の妻、バト・シェバを召し入れ、さらにはウリヤを戦死させるように仕向けてしまいます。ダビデ王は年老いて、ベッドに寝たきりになった時に彼女は、わが子ソロモンを王にするためにダビデ王に命がけで訴えるわけです。もし、彼女の訴えが失敗したならば、バト・シェバもソロモンも殺されてしまったかもしれません。
系図に出てくる女性たちを見ますと、彼女たちだけの罪、彼女たちだけの問題ではなく、当時の社会的構造の問題であったり、男性たちの問題でもありました。そうは言っても、タマルが遊女の恰好でユダをだますようにして生き延びる以外に方法はなかったのか、ルツももっときちんとした手続きをふんで、結婚することはできなかったのか、バト・シェバもダビデの誘いになんてのらなければよかったのに、と思うことはないでしょうか。
今年、教職講座の講師、男女参画センターの菅原亜都子さんのお話をお聞きする機会がありました。その中で、マジョリティの人たちは、労なくして得られるものが多く、与えられているものが当たり前としているため、マイノリティの人たちの苦労に気づきにくいということをお話されました。系図に出てくる女性たちは、マイノリティに属する人たちでした。配慮を受けることができない人たち。マジョリティの人たちから見れば、どうしてもっと他の方法が見つけられなかったのか。と簡単に言われてしまう立場の人たちでした。私たちは、どの立場にたって物を見るか、様々な立場の人たちの視点に立ち、想像力を用いることができるか、ということが本当に大切なのではないかと思わされます。
系図に出てくる女性たちは、様々な困難や、大変な危機に直面し、逆境にあった女性たちですが、共通しているのは、ただ単に不幸ではないということです。この女性たちは、何かしらからの束縛から解放されなかったかもしれません。社会構造が変わったわけでもない。しかし、自発的に行動し、自分の尊厳を守ろうと行動した人たちでした。そして、それを可能にしたのは、彼女たちの中に信じるもの、すなわち神への信頼があり、本当の意味での自由な生き方ができたのではないでしょうか。
主イエスの母となるマリアも、婚約者がいながら、未婚で子どもを宿し、石打ちの刑で命を奪われるかもしれなかったマリア。しかし、自分の身に起こったことを、投げやりではなく、あきらめでもなく、成り行きでもなく、「お言葉どおりこの身になりますように」と自分の身に引き受けて、積極的に自分の人生を歩もうとする姿があります。そこには恐れはなく、主に対する愛と信頼が現れています。
聖書の中では「私がアブラハムの子である」ということが権威を持ち、みんな大変誇りにしていることが伺えます。誰につながっていて、誰が祖先であり、私こそが神様に愛されるにふさわしい選ばれた民だ、と。
しかしお読みいただいた系図でさえ、マタイとルカの福音書でさえ、違うところが見られ本当のところは分からないのです。けれどもわざわざここにイエス・キリストの系図として聖書に載せられて、語り告げられたわけは、彼女たちを通して、またその物語を通して明らかにされている人間の悲しいまでの罪深さそして、それに対して救いを求めるすべての人々を限りなく愛し、決してあきらめることなく、神が救ってくださるのだということが現れているのではないでしょうか。そして最後の最後に、主イエス・キリストが名が記されています。自分を無にして、しもべの身分になり、罪深い私たち人間と同じものになられました。それは、人間の不確かな系図、間違いだらけの系図、何の救いの根拠とならない系図によるものではなく、神がどれほど人間を愛されているか、その証として、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、主なる神の子どもとされたその系図にあなたも連なっている、ということが明確に記されているのです。
私たちの人生が、罪と悲しみにだけに終わるのではなく、キリストによってあなたは高価で貴い、意味あるものとして変えられた、そのことを信じ感謝しながら、このクリスマスのときを過ごしたいと思います。
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